思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

フレーム問題と「あきらめない」

2011年07月22日 | 哲学

(写真:Eテレ「ヂィ-プピープル 人型ロボット開発者」から)

 福島原発の廃炉に向けての努力が進められている中で、最高に危険度の高い場所での作業を行っているいるのは人間ではなく作業ロボットです。

 遠隔操作によるリモコン型のロボットで、ロボット自身の作業場、所走行場所での本体バランス制御以外はほとんど、遠く離れている人間が行なっているようです。

 劇画に登場するロボットのように、自らの判断による作業であるならば作業能率は向上し、廃炉までの道のりは短縮されるに違いないと思います。

 テレビ好きの私が最近思うのは、人間型のロボット会は何時についての番組がNHKのみでなく多く見られるようになった、ということです。

西行法師のゾンビ作りと「哲学ゾンビ」について[2010年03月07日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/3f1f93bbcd9ef1db83c422fec5e645da

人間以外のものたちの振舞い・英知をつけることの重要性[2011年06月06日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/ec5708ea2c24b13dcfd8b1c9dbbc381d

と題して人型ロボットについて掲出してきました。

 本物の人間と変わらない映画「AI」並みのロボットができるかとなると、どうしてもある難問があり出来ないだろうというのが定説です。

 それがいわゆる「フレーム問題」というもので、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると次のように解説されています。

<ウィキペディアから>

 フレーム問題(ふれーむもんだい)とは、人工知能における重要な難問の一つで、有限の情報処理能力しかないロボットには、現実に起こりうる問題全てに対処することができないことを示すものである。

 現実世界で人工知能が、たとえば「マクドナルドでハンバーガーを買え」のような問題を解くことを要求されたとする。現実世界では無数の出来事が起きる可能性があるが、そのほとんどは当面の問題と関係ない。人工知能は起こりうる出来事の中から、「マクドナルドのハンバーガーを買う」に関連することだけを振るい分けて抽出し、それ以外の事柄に関して当面無視して思考しなければならない。全てを考慮すると無限の時間がかかってしまうからである。つまり、枠(フレーム)を作って、その枠の中だけで思考する。
 
だが、一つの可能性が当面の問題と関係するかどうかをどれだけ高速のコンピュータで評価しても、振るい分けをしなければならない可能性が無数にあるため、抽出する段階で無限の時間がかかってしまう。

<以上>
 
 これがフレーム問題なのだそうです。人間に近いロボット開発で人間を知る、その結果がこういうことでもあるわけです。

 この世に創造された人間、実に複雑怪奇なのです。さて小生の頭の中にはこの問題が片隅の中に置かれているので、「フレーム問題」という言葉に敏感に反応します。

 この事柄に関して、まだブログに書いてないことがありましうので今朝はこれを取り上げたいと思います。

 専門家はどこまでも専門家、素人にはどうしても書けない文章。そんな文章に出会いました。

<『メルロ=ポンティ』(河出書房)「河野哲也著 メルロ=ポンティの拡がりから>

・・・・もう一つは心の哲学、心身問題に関するものです。心の哲学というのは心身問題をどう解決するかという問題に発しています。そのためには、まず心とは何かを規定しなければなりません。

70年代に心の哲学で主流をなしていたのは、人間をコンピュータのようにみなそうとする古典的計算主義と言われる立場です。つまり人間というのは、脳がハードだとすると、人間の心はそれに乗っかっているソフトウェアみたいなものであると考えたのです。

そうすると人間の心とは、一種の抽象的なプログラムだということになります。頭の中で計算処理や記号処理みたいなことを行っているのが心なんだ、という考え方が哲学のなかでも大きな地位を占めていましたし、コンピュータの戦後の大きな発展とほぼ歩調を同じくしていて、影響力があったのですね。

 ところがある地点になるとそれではうまく説明できないことがあるとわかってきた。それは、やはり人間の心というものにおいて身体は本質的な役割を果たしていたということが明らかになつてくるんですね。

具体的には、たとえばフレーム問題ですね。フレーム問題というのは、知能や言語がどういう文脈や枠組みで発揮されるかという問題です。言葉は、大きな文脈の中に組み込まれて初めて意味が定まります。たとえば「どうも」という曖昧な言葉があります。

それは謝っているのかもしれないし「ありがとう」かもしれないし、ちょっと怒っている「どうも」という言い方もあるわけですよね。表情と全体のシチュエーションと身振りや手振りを全部含めて「どうも」が怒った表現になることもあるということです。

さらにいえば、「どうもありがとう」の意味をもった「どうも」を言ったあと、思いがつのって言葉に詰まり、「本当にありがとう」の続きが続けられない「どうも」であれば、本当は大変深い意味をもった言葉なのかもしれませんよね。

こうした文脆性や枠組み性を私たち人間は、ある程度の精度をもって了解しているのですが、この文脈の切り替えがコンピュータには困難です。コンピュータは字義どおりにしか言葉を理解できないけれども、実際の会話では、180度意味の違うものが同じ言葉で語られる。

それは結局、生きた人間が表情をもった語り口で誰かに向かって、ある時間的な流れの中で語っているということでしょう。抽象的な言葉における辞書の中で、「どうも」はこういう意味だ、とただ書かれているだけでは、「どうも」を理解したことにならない。

具体的な状況で、絵のようにあるいは映画のように理 解されることで初めてわかる。そして、ある相手に対してある 状況で語ることができるのは身体をもった存在だけです。

 そうすると結局、人間の心というものも、身体から切り離すことができないということになります。心は身体に埋め込まれ、身体を通して環境に組み込まれている。身体というのはある状況のなかで生きています。こうしたことを提起した点において、メルロ=ボンティが注目されるようになった。・・・・・・

<以上同書p97~p98から>

 フランスの哲学者メルロ=ボンティにかかわる文章内の話です。言語理論とこの問題の
二つの方向性が大きくメルロ=ボンティが認知科学や心の哲学や分析系の哲学のなかで関心を呼んでいる理由だと解説されている文章内の一部です。

 人間の「あいまいさ」そんな点をみる話です。肉体を有するがゆえに・・・・。という話になるのですが。「あいまいさ」となると指摘されるのが日本人の特徴的な態度、姿勢です。

 それがまた争いごとの原因でもあり、穏便な生活の維持にもつながる。穏便とはある種生活の知恵でもあり、恥じ消し作用でもあると思います。

 一長一短な話ですが、こういう「あいまいさ」の研究は日本人には長けているのではないでしょうか。

 肉体の作用による欲望。ある面消すことはできない必然性を有する問題です。切り離して魂の鍛練をと思うのですが、肉体を離れて魂もあったものではない。

 その重要性に気がつき、肉体的鍛錬を怠らない。そこに「あきらめない」姿勢があるように思います。

 漢語で「諦めない」「明らめない」と書くとやまと言葉の「あきら・む」に関わってきます。その真髄を書くとなるととんでもなく長い話になりますので書きませんが、以前漢語では「あきらめない」は書くことができない言いましたが、その理由はそこにあります。

 肉体に乗った自分の視点で考えると見えないものが見えてくる、「あきらめない」という言葉は、独り言ですが、そうすると理解できるような気がします。