思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

たまさか・たまたま・偶然の出逢い

2011年07月05日 | ことば

 話のついでに今朝のテーマと少々離れた話から進めたいと思います。

 本年6月10日スペインの「カタルーニャ国際賞」を受賞した作家の村上春樹氏の「非現実的な夢想家として」というスピーチの中で語られた「無常」について調べているとネットの世界では、

>「村上春樹 無常(mujo)から始まるスピーチの倫理観 「震災と日本人」連載18<

というサイトがニースサイトによく出てきます。

<参照引用>

>唯一の原爆被爆国である我々は、どこまでも核に対する「ノー」を叫び続けるべきであった。それが、広島・長崎の犠牲者に対する我々の責任のとり方、戦後の倫理・規範の基本だったはずなのに、「効率」「便宜」という「現実」の前に、それらを敗北させてしまった。このたびの原発事故で損なわれた倫理・規範は簡単に修復できないが、自分は作家として、そこに生き生きとした新しい物語を立ち上げたい。夢を見ることを恐れてはならない。「効率」や「便宜」という名前を持つ「現実」に追いつかせてはならない。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならない<(スピーチの概要)

・・・・・・・・・・・・・

「最初にも述べましたように、我々は、無常(mujo)という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです」。

<以上>

この部分が村上氏がスピーチしたという内容らしく、いろんな人が、いろいろと言葉を組み合わせていっている類の話・・・でコメントを付すまでもない・・・で済まそうと思います。強いて言うなれば前半が深みのない一般的な刹那的に解される虞のあるもので、聞く側が想うならば、「生き生き」よりも「活き活き」の方が翻訳的にはよいのではないかと思いました。

 この検索の際「村上春樹」検索の副産物で「村上春樹の偶然の一致」話が引っかかり「偶然」という言葉に興味のあるものとして立ち寄ってみました。

 本購入は自分にとって無駄ではない限り購入し又は図書館で借りることにしています、が村上春樹氏の本だけはほとんど読まないに等しいのです。これではいけない時代に送れると思うのですが、読む時間があれば他のもの(本)をという次第で遠のくのです。

 横道にそれてしまいましたが、『東京奇譚集』(新潮社)に、世の中には「偶然の一致」というのが存在するんだという村上春樹氏自身の経験話が載っているようです。

 「偶然の一致」という言葉を聞くと分析心理学のユングの「シンクロニシティ」という言葉を想起します。上記の紹介者もそのようであって、自らの偶然の一致を紹介していました。あらためて「シンクロニシティ」ですが、ウィキペディアでは次のように解説されています。

<フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』>

 シンクロニシティ(英語:Synchronicity)とは「意味のある偶然の一致」のことで、日本語訳では「共時性(きょうじせい)」とも言う。非因果的な複数の事象(出来事)の生起を決定する法則原理として、従来知られていた「因果性」とは異なる原理として、カール・ユングによって提唱された独: Synchronizitatという概念の英訳である。 何か複数の事象が、「意味・イメージ」において「類似性・近接性」を備える時、このような複数の事象が、時空間の秩序で規定されているこの世界の中で、従来の因果性では、何の関係も持たない場合でも、随伴して現象・生起する場合、これを、シンクロニシティの作用と見なす。

一般的概念
 ユングは、全てではないにせよ、いくつかの「偶然の一致」(coincidences)は単なる文字通りの「偶然」ではなく、非因果的な複数の事象の「同時発生(co-inciding)」か、あるいは普遍的な事象を作り出す力の連続性によるものであると信じたのである。これらの力により、直観的な意識と行動が調和する過程を、ユングは「個性化」と名付けた。集合的無意識(collective unconscious)による、個性化された人間の意識のコミュニケーションを通じて、現実の出来事が形成されるというのが、ユングの主張であった。

<以上>

 今朝は前置きが長い話で主題がはっきりしませんが、今朝もこの「偶然」という言葉を扱ってみようと思ったわけです。

 いつもの哲学的な視点からではなく、日本語の「偶然」について話そうと思います。話そうと言ってもいつものとおりの番組紹介レベルの話です。

 今年の1月ごろNHK総合で「恋する日本語」という番組が放送されていました。深夜番組で視聴率もあまりなかったようですが、大変勉強になりました。

 番組は、小山薫堂著『恋する日本』からでキーワードとする35の短編からなる物語で、単行本は2005年幻冬舎刊。文庫本は2009年幻冬舎文庫刊があるようです(購入していません)。小山薫堂さんは「お葬式」という映画も手掛けた方です。

 番組の進行役のマダムは女優の余貴美子さんで、「ことのは屋」という裏通りにある小さな店に悩み多き恋する女性がたずね、アドバイスを受けるという内容でした。

 何回目かに今日の「偶然」を取り扱った内容があって、そこで「たまさか」という言葉が紹介されていました。番組ではたいへん詳しく解説されビックリしました。

 「たまさか」は漢字で書くと「偶さか」で、同じ言葉で「たまたま」という言葉があります。

この言葉は、時代ごとの使われ方が次のようにあります。



また、似た言葉に「たまたま」があり、



という意味で、どういう時にどのように使われているか源氏物語内の二語の使われ方を見ると、




というように圧倒的に「たまさか」が多く、「たまたま」は、次の光源氏のセリフにあるだけでした。

 平安時代には、偶然を女性は「たまさか」、男性は「たまたま」と言ったことがわかります、という結論でした。



辞書にはそこまで書いて無く気にもしていませんでした。

 万葉集には「たまさか」を使用した次の歌があります。上記の話から男女の別があるとすると次の歌も男性が詠んだ歌ということになります、

【巻11-2396】
たまさかに わがみしひとを いかにあらむ
  玉坂   吾見八     何有 
よしをもちてか またひとめ みむ
  依以      亦一目見
 
国文学者で歌人の土屋文明先生は、この歌を次のように解説しています。

<引用『萬葉集私注 六』(筑摩書房)から>

 たまさかに吾が見し人を如何ならむ由をもちてか又一目見む

 大意 たまたま、吾が見た人を、どんなよりどころを以て、又もう一度見よう。
 
 作意 偶然に会ひ得た相手に、再会の機会の得がたいのを、欺いて居る心持である。男の心持であらう。しをらしい心情をうかがふことが出来る。

<以上同書p35から>

 訳が少々理解しがたいのですが、他本を参照すると次の内容です。

 はからずも私が見かけた人よ、その人を、どんなきっかけでまた一目見ることができようか

と新潮日本古典集成には訳されていて、「巻11-2389~2397は、女の歌四首、男の歌五首の配列で、同一資料から出た一群か」と書かれていて、この「たまさか」の歌の前の2395

 行き行きて 逢はぬ妹ゆゑ ひさかたの 天(あめ)の 露霜(つゆしも)に 濡れにけるかも


 遠い路をわき目もふらず逢いに行ったのに、あってもくれない娘、その娘ゆえにひんやりと降り置いた秋の霜にすっかり濡れてしまった。

なので、前句を受け2396は男の歌であろうと書かれていました(新潮社版)。

  今ではほとんど性別に関係なく「たまたま」を使います。

 偶然性を装った出逢い、今は昔ですが、そんな時代もあった・・・ということで。

 たまたま検索していたところ「偶さか」に遭遇し、そんなことを思いました。

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