思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

大津波と原発・イーハトーブ思想・精神歌と宮沢賢治の世界

2011年07月04日 | つれづれ記

(写真は、NHKアーカイブ「宮沢賢治東北の魂」から)

 朝日新聞出版から『大津波と原発』という小雑誌が出版された。雑誌等には簡単な単行本と表現したほうがよいかもしれない。

 対談集で、

神戸女子大学名誉教授 フランス現代思想、映画論、武道論の専門家の内田 樹(うちだ・たつる)

人類学者の中沢新一(なかざわ・しんいち)

立教大学大学院ビジネスデザイン研究科特任教授の平川克美(ひらかわ・かつみ)

の3.11東日本大震災に伴い発生した福島原発問題をテーマにしたものです。

 震災の三週間後の4月5日にUstreamで配信される番組「ラジオデイズ」での対談を一冊にしたものです。

 目次は、

Ⅰ 未曽有の経験をどう捉えるか
Ⅱ 津波と原発事故はまったく異なる事象である
Ⅲ 経営効率と排除される科学者の提言
Ⅳ 原子力エネルギーは生態圏の外にある
Ⅴ 原子力と「神」
Ⅵ 「緑の党」みたいなものへ
補 私たちはどこへ向かうべきか

この対談についてのブログに、

>原発が一神教的神である<
>「緑の党」構想と同党旗への宮沢賢治と南方熊楠の象徴的描写<

を言葉少なく印象的なものとして書かれていて、中沢新一、内田樹両氏の名も重なり惹きつけられるように読んでみました。

第一印象は、この人たちには普通の人には見えないものが、見えてしまう、まるで薬物的な幻影のように・・・・特殊な能力を感じました。

 なぜ原子力が「神」か?

 火には火の神がいて、水には水の神がいる。確かに日本の民族的な宗教観の中では立派に今も現存している事実で、片田舎にいるといたるところに水神様、大山津見神(山の神であったり木の神であったりする)等を見ることができます。

とりあえず本紹介で、引用紹介したいと思います。

<引用『大津波と原発』朝日新聞出版から>

「聖域」の扱い方

中沢 日本人も、そういう神様を受け容れたわけです。さて、この神様をどう扱ってい くかというときに、今まであった思想じゃほんとうは全部ダメなんじゃないですか。エジプトのイヌの神様とかワニの神様とか、ああいう神様が出てくれば、水かければよかったんだけど。

内田 うん (笑)。
中沢 ホレブ山の燃える神に水かけたってダメなんですよ。そういう原子力みたいな神 を前にして、ユダヤ人は宗教革命をやらざるを得なかった。ですから、一神教の思考にはこの神の扱いがわかっていた。

 そこでフランスなどはたいへんな原発推進国で原発大国ですから、彼らはこれを  自分たちの社会に持ち込むときも最初から怒れる神を扱うように慎重でした。ものすごく危険な神を自分たちの世界に持ち込んで、熱を出させようとしているのを知っているんです。

内田 そうだよね。

中沢 だから、ノルマンディの海岸に原発を建てるときには、周辺の住民にヨウ素を配 つているわけです。原発を中心において、一〇キロ圏、二〇キロ圏というふうに量を調節しながら。

内田 まさに神域なんだ。

中沢 そうなんです。距離に応じて、ヨウ素剤の配布量を減らしているんです。ですか らノルマソディなどの原発周辺の人は、「安心ですよ」と言いくるめられる前にまずたくさんのヨウ素剤をもらっている。
 これが一神教的な神の扱い方に慣れた人たちの原発の扱い方だと思います。
 
内田 そうだね。大聖堂を置いて、周りに同心円的にさ、神殿から離れれば離れるほど 神威がだんだん軽減していく。近くに行くと、エネルギーがすごい。だから、特別に神さまに呼ばれた者以外は、めったに近づいちゃいけない、と。

平川 聖なるもの、聖なる場所についての扱い方をわかっている。

内田 聖域をどう扱うかっていうことだね。

<同書p66~p67から>


 復興の基本思想
 
平川 いや、東北のあの一帯全体を、まったく新しいものに生まれ変わらせるというお 話、たとえば原発のところに太陽光発電パネルを敷き詰めるというのは、はじめて聞きました。

内田 それ、すごいアイデアだよね。

中沢 それからですね、甘ったるい話だなんて誤解されるのが嫌だから言わないように していたんだけれど、宮沢賢治みたいな人が東北をどうするかって考えていたのは、こういうときのためなのだと思うのです。イーハトヴの思想なんて、これからの復興の基本思想に据えていくべきものです。

 宮沢賢治はそういう思想を童話で表現しておいたから、甘い話だなんて思う人もいるかもしれないけれど、彼は貧しい東北をどうやったら未来にとってもっとも輝かしい地帯につくりかえられるかということを、本気で考えていた人です。

 そんなことを考える思想家が生まれ得たのは、東北だからです。東北はそういう可能性がある場所なんです。ぼくの考える「緑の党」の旗には、宮沢賢治と紀州の南方熊楠が描かれるんだ。
 
平川 東北人の中からそういうヴィジョンを持った人たちが出てくると思いますけれど もね、本当に。その現場の中から。

中沢 ああ、こんな地味な場所じゃなくて、もっと別なところで発信したかったなぁ(笑)。

内田 地味っていうのは失礼じゃないですか (笑)。

中沢(笑)。いや、まあ地味なところがいいです。

平川(笑)。まあ「ラジオデイズ」は経営難でございまして (笑)。

中沢 出発はこんなところがいいのかもね。

<以上同書p88~89から>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

原子力(核分裂)=神

という思考形態、原子核と中性子の衝突から生み出されるエネルギーというイメージ的な概念を学校教育程度の知識で多数の人が知っている事実、そこに神を重ねる。

 自然の無限の力を想定するならば、神的概念もあり得ると思うのですが、原爆という塊は人為的に造られた物、原発も人間の制御によって行われていた発電・電気(物)とイメージであり、小石一つを「玉(魂として)と拾う」精神状態とは同一には到底思えないののです。

立ち入り禁止区域=聖域

 日本的なら「縄張り」という、聖域にしめ縄を張る行為や、古代の罪として田んぼの畔に「縄張り」する行為があります。

 しめ縄(注連縄とも書きます)の内側には何があるのか、実際は、木があり、山があり、石があり、鏡があり実在を離れた神らしき物は存在しません。

 どうして核反応している棒が神に見えるのか、建屋が神社に見えるのか、合理的にできていない私の頭でも理解できません。

 両氏には神が実在している、存在として見えてるとしか思えないののです。一神教の産物と言及しながら、それに囚われてる、そう見えるのです。

 南方熊楠は博物学者として、幻覚キノコを試したのか、若干中沢氏に近いところがあり納得いくのですが・・・宮沢賢治先生を担ぎ出す・・・これには異を唱えたくなります。

>イーハトヴの思想なんて、これからの復興の基本思想に据えていくべきものです。<

とは何か?フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、

イーハトーブとは「岩手」(歴史的仮名遣で「いはて」)をもじってつくられた宮沢賢治による造語で、賢治の心象世界中にある理想郷を指す言葉である。

賢治の作品中に繰り返し登場するが実はその語形には複数の形があり、年月とともにおおむね以下のような変遷をたどっている。
 
イエハトブ → イーハトヴ → イーハトーヴ → イーハトーヴォ/イーハトーボ → イーハトーブ

童話集『注文の多い料理店』広告ちらしによる説明
 
賢治が生前に出版した唯一の童話集である『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』の宣伝用広告ちらしの文章には、「イーハトヴ」について以下のような説明がなされている。この広告文自体は無署名だが、内容等から賢治自身によるものと推定されている。

 「イーハトヴとは一つの地名である。強て、その地点を求むるならば、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。実にこれは、著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。」
 
と説明されています。

 「ドリームランド」と書かれていますので理想郷ということにもなるのですが、38歳の若さで死んだ先生の「デクノボー」の心に残され、そこにはそうあるべき人としての精神の教育の必要性が切実にあるように思います。

 先生の残された歌に「精神歌」という詩があり「花巻農学校精神歌」となっています。


(NHKアーカイブ「宮沢賢治東北の魂」から)

<青空文庫から>

花巻農学校精神歌
 
宮澤賢治
 
(一)日ハ君臨シ カガヤキハ
  白金ノアメ ソソギタリ
  ワレラハ黒キ ツチニ俯シ
  マコトノクサノ タネマケリ


(NHKアーカイブ「宮沢賢治東北の魂」から)
 
(二)日ハ君臨シ 穹窿ニ
  ミナギリワタス 青ビカリ
  ヒカリノアセヲ 感ズレバ
  気圏ノキハミ 隈モナシ
 
(三)日ハ君臨シ 玻璃ノマド
  清澄ニシテ 寂カナリ
  サアレマコトヲ 索メテハ
  白亜ノ霧モ アビヌベシ
 
(四)日ハ君臨シ カガヤキノ
  太陽系ハ マヒルナリ
  ケハシキタビノ ナカニシテ
  ワレラヒカリノ ミチヲフム
 
わたしはこの最後の、


(NHKアーカイブ「宮沢賢治東北の魂」から)

 ケハシキタビノ ナカニシテ


(NHKアーカイブ「宮沢賢治東北の魂」から)
 
 ワレラヒカリノ ミチヲフム

がとても好きです。教育には懇切丁寧な地道な取り組みが必要だと思っています。

 震災後の4月10日にNHKアーカイブで「宮沢賢治東北の魂」という番組が放送され、改めて考えさせられました。

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邪推

2011年07月04日 | つれづれ記

(写真:つず丸地震情報から)

松本市を中心とする長野県中部地震、地震上の最終は、

発生時刻 2011-07-02 23:43頃
震源地 長野県中部
深さ 約10Km
マグニチュード 1.6

ということです。
 この震源地を見ると松本市の南部の美ヶ原から塩尻方面に連なる1500m余りの山並みの裾野に位置する中山地区です。この地震の前を見てみると震源地は同じように中山地区で、震度は同じようなものです。

 この場所は素人目にも牛伏寺断層に直結する場所で、牛伏寺断層は非常に危険な震度8クラスが予想される場所です。

 この夏には世界的な会議が開催され、また例年お音楽祭も開かれ、いつもの場所でいつものことが行なわれることになっています。

 昨日は全く静かで不気味な感じです。松本平は浅間山(長野県東部)の様な火山はなくエネルギーの掃出し口がありません。

 いわゆる歪みのエネルギーは確実にたくわえられつつあるとも思われます。隣接も含めて各市町村の行政はもう少し機敏な動きをする必要があるのではないか、素人ですがそう思えてなりません。

 静まって忘れたころが一番いけないのではないかと・・・事実を歪めた邪推であってほしいのですが。


悪が熟する・善が熟する・自ずから然りの世界

2011年07月04日 | 仏教

(写真:安曇のではどこへ行っても芝桜が盛りです。笑うという言葉で花をみると活き活きとして見えます。)

 最近は眼前に広がる世界を認識する場合に、「これは何か」という問いによる言語化しなければならない部分と言語化する以前にそれはある、という認識があることを強く意識し、視点という問題、志向性の問題を深く考えるようになりました。

 やまと言葉(古語)の「笑む」「微笑む」という言葉の概念の中には実際にニコニコ笑う、ニヤニヤ笑う概念と「花が咲く」「実が熟す」という概念があること知り、現在では失われている古代人の精神構造に深く、強く感動しています。

 どう見ても花は語ってはいないし、花は笑っていません。しかしそのように表現してしまう。

 実際花を見つめるときに、咲いた花が「微笑んでいる」と・・・表現が難しいのですが・・・言葉化して視線を向けると、花が活き活きして見えるのです。これは単純な話で、現前のものは変わってはいない、変化はしてはいないのですが、活き活きが見える。

 これは個人的な、まったくのこの個人的な考えですので了承願います。

 上記の流れもあって、「花が咲く」「微笑む」や「熟す」という言葉が文字として眼前に立ち現れるとどうも引き寄せられる(主体から積極性)、魅了される(相手の誘惑感で感じるのはあくまでも主体)昨今なのであります。

 昨日はあるサイトの文章に「法句経・ダンマパダ」という原始仏教典の一節を見てその中に「熟」という言葉が書かれているのを発見しました。「悪心が熟する」旨の意味を表現しているもので、以前ならば素通りしてしまうのですが、引き寄せられ、魅了されたわけです。

 そこで、法句経(以下はダンマパダを意味する)を何種類か読み直してみました。

【法句経119】
 悪果未だ熟せざる間は悪人も尚ほ幸に遇ふ、悪果熟する時に至れば(悪人は)悪に遇ふ。

【法句経120】 
 善果未だ熟せざる間は善人も尚ほ悪に遇ふ、善果の熟する時に至れば(善人は)善に遇ふ。

これは法句経(荻原雲来訳注 岩波文庫)で初版は昭和10年です。この当時はこの法句経が流行した時代で、その当時のベストセラーは『法句経』(友松圓諦著)でした。

 友松先生の法句経をみるとこの偈を次のように訳しています(講談社版を使用)。

【法句経119】
 悪の果実(このみ)いまだ
 熟(う)れざる間(あいだ)は
 あしきをなせる人も
 幸福(さいわい)を見ることあるべし 
 されど
 悪の果実
 熟するにいたらば
 その人ついに
 不幸(わざわい)に逢わん

【法句経120】
 善の果実(このみ)いまだ
 うれざる間は
 あしきをなせる人も
 善事(よきこと)を見ることあるべし 
 されど
 善の果実
 熟するに至らば
 善人は幸福を見ん

と訳されていました。しからば中村元先生の『真理の言葉 感興のことば』(岩波文庫)を見ると次のように書かれていました。※注:真理の言葉=ダンマパダ 感興のことば=ウダーナヴァルガ)

【法句経119】
 まだ悪の報(むく)いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う。

【法句経120】
 まだ善の報(むく)いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遇う。

となっていました。どうもいろいろ調べていると原文に近いのは中村先生の訳で、友松先生は「果実の熟」を使っていますが原文には「果実」はないようです。

 次に引用したいのはNHK出版の「シリーズ仏典のエッセンス」の『ダンマパダ』)松田愼也著)です。松田愼也先生は上智大学の宗教学・仏教学の専門家で春秋社の『中部経典』などを手掛けておられる方です。

 この本は法句経の解説書です。偈だけの話ではなく思想解説がなされています。法句経の第5章の偈から引用します。

<引用『ダンマパダ』)松田愼也著 NHK出版)から>

・・・・・『ダンマバグ』第五章「愚者」(※中村元先生の場合は「愚かな人」)には次のような句があります。

 ある行為をしたのちに、そのことで悩み苦しみ、顔に涙して泣きながら、その報いを受けるならば、そのようになされた行為は善くない。(六七「愚者」)

 ある行為をしたのちに、そのことで悩み苦しむことなく、喜んで心地よく、その報いを受けるならば、そのようになされた行為は善い。(六八)

 行為の善し悪しは結果から計られるというわけですが、現実世界は本当にそうなっているでしょうか。善人が報いられるどころか悲惨な目にあったり、悪人がのうのうと栄華を誇っていることもあるではありませんか。業思想は、弱者の空しい復讐願望に過ぎないのではないでしょうか。しかし、そうではない、と 『ダンマバグ』は続けます。

 愚者は、悪行の報いが熱しない間は、それを蜜のように思いなす。しかし悪行の報いが熟したときには、苦しみを受けるに至る。(六九「愚者」)

 悪しくなされた行為は、牛乳と同じように、すぐには固まらない。灰に覆われた火と同じょうに、じわじわ燃えながら、愚者につきまとう。(七一)

あるいは、次のようにも言われます。

 まだ悪の報いが熟しない閏は、悪人といえども幸運に出会う。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はもろもろの凶事に出会う。(二九「悪」)

 まだ善の報いが熟しない間は、善人といえども凶事に出会う。しかし善の報いが熟したときには善人は幸福に出会う。(一二〇)

結果が現れるのには時間がかかるのです。それまでの間は、あたかも業など存在しないように見えるのだ、というのです。牛乳を暖かいところに放置しておくと、やがて腐敗して固形分と上澄みに分かれます。これをうまく管理すれば、ヨーグルトやチーズができます。

インドでは、古来、乳製品を多く食べてきました。それを巧みに比喩として用いているのです。火を灰に埋めると長時間保つことができます。火種を残すのです。私たちは必要に応じてそれを掘り出し、炎を燃え立たすことができます。そのように、業は埋火(うずみび)として存在し続けるのです。

 でも、これでもまだ不十分です。人の一生だけを考えれば、到底、善悪の業とその報いである苦楽とは、計算上の辻褄があっているとは思われません。

「天道、是か非か」とは中国の史書『史記』の作者・司馬遷の残した有名な言葉です。高潔の士である伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)の兄弟は極貧のうちに餓死し、極悪人の大盗賊である盗跖(とうせき)柘は天寿を全うしたことについて発した疑問です。

古代中国に業思想はありませんが、「天」が人の善悪を把握し、賞罰を与える、と信じられていました。本当にそうなのだろうか。果たして「天」に正義はあるのか、というのです。・・・・・

<以上同書p35~p37から>

この続きには、この

<果たして「天」に正義は>

に対するインドの輪廻思想が語られていますが、今朝の思考の視点はこの「熟」という言葉ですのでここまでの引用としました。

 「熟」の根本的な意味は「菌が繁殖」をするような感覚の概念のようです。

菌という主体が、培養皿であたかも意志のあるように自分の都合の善き方向に繁殖するように・・・・。

 その根本には、主体があります。「菌」という主体が。

 そこでやまと言葉に「熟する」という言葉があるか、というと古語辞典にはありません。古語の逆引きの辞典『古語類語辞典』(三省堂)を引くと次のように書かれています。

じゅく・す[熟] 
 あからみあふ[赤合]
 うる[熟]
 つゆ[潰・熟]
 わらふ[笑]

じゅくせい・する[熟成]
 なる[慣・馴]

となっていて、わらふ[笑] については過去に「微笑む」の時に紹介しています。注目点は最後にある。

 なる[慣・馴]

で悪が熟するのではなく、悪に慣れる。以前にも言った「狎れる・熟れる・慣れる・馴れる」につながり。

 日本語では「悪」に主体性をもたせない。悪に染まっていく私がある、という感覚なのだと思うのです。

 「なる」の根底にも通じることで、[慣・馴]ではあるが「成」でもあり、主体性のない「自ずから然り」の世界が見えるような気がします。

 そのような世界観が、仏教の伝来とともに折り重なり独自の、大乗的なもの、民俗的なものにうまく迎合されているのではないか、というのが今朝の結論です。

 さらに哲学的に追求するならば、西洋の現象学における志向性の機能の捉え方です。「自ずから然り」という視点が捉えにくい(合理的に説明ができない)という問題につながるように思えるのです。

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