思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

生物学者の無常観

2011年07月27日 | 文藝

 Eテレ「日めくり万葉集」の歌の撰者は、いろいろな職種の方々です。その専門分野の職業に従事し、蓄積された知識や経験から万葉集の歌の響きをその独特的な認知体験を語ってくれます。

 生物学者の青山学院大学教授福岡伸一先生もその一人で、子どもの頃から生物に興味を持ちつづけ生物学者となりその専門的な視点から見た万葉の世界を語ってくれる。



先月の二日には巻12-3086の

 なかなかに
 人とあらずは
 桑子にも
 ならましものを
 玉の緒ばかり

訳(テキスト)
 なまじっか
 人間なんかでいないで
 桑の葉を無心に食べる蚕にでも
 なりたい
 はかない命だとしても
        <作者不明>

を選出し、この歌が書かれたのは今から1300年ほど前のこと、生命の歴史は38億年の中で考えると現代とほとんど変わらない時代に生き、現代人とほとんど変わらない人生観を持っていたことがわかると語ります。

 蚕は一生懸命に絹糸を吐くことに専念し世の中の煩わしさに惑わされることなく一生を終る、この作者は精神疾患が蔓延しつつある現代人と同じように精神的な苦しみの中にいたのではないかということです。

 福岡先生は、

 この歌の面白さは、他の生物と、人間の生命というのは、ある種つながっていて、生まれ変わることができる。あるいは自分の前世とか次の世というものを想定する。そういう自然観があり、それが現在の私たちの底流にそなわっているところにあると思う。

といい古代人の生命観は、現代の生物学からも納得できるものがあるといいます。

 さらに、

 私たちの身体を作っている分子や原子は、食物をとることで絶え間なく入れ替わっているわけです。でも食物というのは、他の生物の身体の一部ですから、そこから分子をもらって一瞬私たちの身体を構成します。でも、それはすぐに分解されて、呼吸とか排泄物となって環境に散らばっていく。それがまた別の生物の栄養になり、エネルギー源になり、身体の一部になる。

 つまり、地球全体の原子の総量というのは太古の昔からそれほど変わっていなくて、それがぐるぐると回って、いろいろな形になり、バトンタッチを行っているのが、地球上に多種多様にいる生物、生命現象だということです。

と語ります。生物学者の語り生命観、淡々とした人生の流れを語っているように思います。

 それはある種誤解のある無情的な無常観を語っているかというとそうではないのです。昨日の「日めくり万葉集」の撰者も福岡先生で柿本人麻呂の次の歌を選出し語っていました。

 もののふの
 八十宇治川(やそうぢがわ)の
 網代木(あじろき)に
 いさよふ波の
 行くへ知らずも
 (巻3-264 柿本人麻呂)


 もののふの
 八十宇治川の
 網代木に
 さえぎられていざよう波の
 行方がわからないことよ

という歌で、川の中に設置された網代木という魚を取る場所に立つ波、しばしそこに滞るかに見える波だが、この波はいったいどこへ流れ去ってしまうのであろう、という内容のものです。

 福岡先生は、京都で学生時代を送り、字治川の河畔を散歩しでいると、水の流れがたゆたったり、くるくる回ったり、草に絡まりながら動いていく、そういうようすをよく見ていたといいます。

 このような実体験とこの万葉歌そして生物学者の視点から前記の歌からの生命観、生きものの身体を形づくる分子が、常に入れ替わっているという生命現象に注目し、この歌から、科学のもつ意味を改めて考えさせられるど言い次のように語っています。

【福岡伸一】

 たとえば、私たちがやっている生物学は、分子や原子のレベルで生命現象の流転や変換、あるいは分解を考えています。それは言つてみれば、ここで詠われているような「いさよふ波の行くへ知らずも」と同じことなのです。

 科学は人間がずっと考え続けてきたことを、もう一度違う言葉で、やや高い解像度をもった文体で言い直しているに過ぎないのではないかと思うことがしばしばあります。
 
 ギリシアの哲学者も鴨長明も、そしで人麻呂も水の流れを見ると同じような無常観を抱きました。つまり、人間が自然を見るということは、昔から変わっていないのでしょう。

そのことは、むしろ力強いと言いますか、励ましのメッセージとも受け取れます。昔から同じような営みが繰り返し行われてきて、そのなかの釘を一本私も打つという意味で、まあ頑張りなさいというメッセージなのではないかと思うわけです。

 この歌の「行くへ知らずも」というところに、私は惹かれます。それは、私が学生時代に一所懸命研究をしながらも、自分がこの先どうなるのかわからなかったことと通底していますし、年を経てもう一度宇治川の畔に立つたときも、やはり私はこの先どうなるのかと感じるだろうと思うからです。

<以上テキスト参照>

ここで語られている無常観、福岡先生は

<ギリシアの哲学者も鴨長明も、そしで人麻呂も水の流れを見ると同じような無常観を抱きました。つまり、人間が自然を見るということは、昔から変わっていないのでしょう。

そのことは、むしろ力強いと言いますか、励ましのメッセージとも受け取れます。昔から同じような営みが繰り返し行われてきて、そのなかの釘を一本私も打つという意味で、まあ頑張りなさいというメッセージなのではないかと思うわけです。>

と現象(よどみなく流れたる)の中に

 励ましのメッセージ
 
 頑張りなさいというメッセージ

を感じるというのです。これは無情ではない、無常観であるというわけです。

 よどみに立つ波、波の流れ

ということで生物学者から見た波と無常観の話でした。