思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

西行法師のゾンビ作りと「哲学ゾンビ」について

2010年03月07日 | 哲学

 今朝に空也上人を調べている時に、西行法師の『撰集抄』の掲載されている西行さんが「ゾンビ」を作った逸話が目にとまりました。

 最近ロボットのことについて書かれているブログを読ませていただき、かつて「哲学ゾンビ」を掲出したこともありますので、西行さんのゾンビ作りの逸話を紹介しながら少々言及したいと思います。

 ここで紹介するのは今朝使用した『日本奇僧伝』(宮元啓一著 ちくま学芸文庫)です。

この本によると西行さんは、

元永元年(1118年)に生まれ、建久元年(11190年)に没した。俗名は佐藤義清(あるいは憲清、則清とも)といった。父の名は康清。近江の三上山の大百足退治で有名な俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)で有名なの子孫に当たり、射家(弓道家)の誉れ高い家柄の出であった。北面の武士となったが、とりわけ歌道に並々ならぬ才能を発揮し、歌好きの後鳥羽上皇の寵愛もあって、従五位、左兵衛尉という官位まで授かった。ところが、思うところあって、二十三歳のある日、突如妻子を捨てて出家した。そのとき、何も知らずうれしそうにまとわりついてくる幼な児を蹴っ飛ばして出奔したという逸話は、あまりにも有名である。

ということで、奇僧とも呼ばれてもおかしくない逸話があります。その中のゾンビの話です。


 西行には、・・・・江口の里の遊女としゃれた歌を取り交わしたという逸話などが数多く伝えられているが、詳しいことは他書に任せ、ここではあと一つ、奇々怪々、興味津々の逸話をみることにする。これは、西行がゾンビを造ったという話である。西行が書いたという虚構のもとに編纂された『撰集抄』所収のものであるから、西行は一人称で登場する。
 
 かつて、高野山の奥に住んでいた頃のことである。月が美しい夜には、とある友達の聖とともに、橋の上で落ち合っては月を心ゆくまで眺めたものである。ところがある日、この聖は、京に用事があると言って、無情にも私を振り捨てて京に上ってしまった。憂き世を厭い、花月の情に通じている同好の友がいてくれたならばと、何となく人恋しい気分でいたところ、思いがけずも、信頼すべき人から、鬼が人の骨を取り集め、こうこうこうやって人を造り出すのだという話を聞いた。
 
 そこでさっそく広野に出かけ、人の骨を集め、それを繋いで何とか人を造ってみた。ところが、姿形だけは何とか人のように出来上がったが、色が悪く、また、心というものがまったくなかった。声は出るのであるが、絃管(楽器)の音のようであった。そもそも、心があってこそ、人の声は何とかかんとか駆使することができるのである。この度は、ただ声が出るための細工にばかり気を取られたものであるから、吹き損じた笛のような具合になってしまったのである。とはいえ、おおかたの人びとにとっては、たったこれだけのものでも、まことに不思議な代物であることに変わりはない。
 
 さて、この出来損いの人をどうしようかという段になって、私ははたと困ってしまった。ばらばらに壊してしまおうと思っても、それでは殺生の業を積むことになろう。心がないのであるから、ただの草木と同じだと思いこもうとしても、何しろ人の姿をしている。やはり壊さないに越したことはないと考え直し、結局、高野山の奥の、人も通わないところに捨て置いた。しかし、何かの拍子に誰かがこれを見るようなことがあれば、きっと化物だといって恐れおののくことであろう。
 
 さて、それにしてもいろいろと疑問に思えることがあったので、上洛の折、以前教えをいただいた徳大寺殿を尋ねたが、あいにく参内されて留守であったため、空しく戻り、代わりに伏見の前の中納言師仲卿のもとを訪れた。そして、かの疑問を打ち明けた。
「いったい、どのような造り方をなさったのか」
と卿が仰ったので、私はこう答えた。
「そのことでござる。まずは広野に出て、誰にも見られないところで死人の骨を拾い集め、これを頭から手足というように、順序を違えずに並べ、砒霜(ひそう)という薬を骨に塗り、いちごとはこべの葉をこれに揉み合わせ、糸や藤の繊維などで骨を繋ぎ、水で繰り返し洗い、髪の毛の生えるべき頭部には、さいかちの葉とむくげの葉を焼いて灰にしたものをこすりつけ申した。それから、土の上に畳表を敷き、かの骨をうつぶせにして置き、風が通らないようにきっちりとこれを包み込み、二七、十四日そのままにしておいた後、その所に行き、沈(じん)と香とを焼いて、反魂(はんご)の秘術を行なったという次第でじっとこれを聞いていた卿は、首を軽く傾けながらこう仰った。
「大筋はだいたいそのようなところでしょうな。しかし、反魂の術が未熟だったのですな。私は、ひょんなことから四条の大納言の流儀を受けましてな、人を造ったことがござる。その人物は、現在、卿相として活躍しておるが、これが誰であるかを明らかにすると、造った人も、造られた人も、ともに融け失せてしまうので、口外するわけには参らぬ。ただ、貴殿もそこまで、こ存じであるからには、造り方の要点はお教えいたそう。実は、香は焼かぬのでござる。と申すのも、香は魔縁を退けて聖衆(しよじゅ)を集める力があるからじゃ。ところが、聖衆たちは、生死(輪廻)を深くお厭いであるから、心が生じ難いということになるとうわけでござる。焼くべきものは、沈と乳とでござろう。また、反魂の秘術を行なう人も、七日の間、物を口にしてはならぬのじゃ。こうした点に留意してお造りなされ。一つでも手煩を間違えてはなりませんぞ」なるほどとは思ったが、考えてみればくだらないことであると反省し、それからは人造りはいっさい止めることにした。(『撰集抄』五の一五)

と実に面白い話です。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 このゾンビは、茂木健一郎の著書(NHKブック 脳内現象)に以下のよう書かれています。

 心脳問題の議論において、外見は私たち人間と区別がつかないが、一切の意識を持たないような仮想的存在を考えることが在る。そのような存在は、まるで人間のように喜び、悲しみ、ことばを話すように見える。表情も身振りにも、会話も、客観的に観察される振る舞いは人間そのものだ。ただこの存在は、一切、意識や主観的体験というものを持たないのである。そのような存在を、哲学的ゾンビと言う(P53から)。

と書かれています。

 キョンシーよりは、人間に近い存在のようなイメージを描けばよいと思います。生物でも、死者ではなく生きている人間モドキで、攻撃性の無いものであるわけです。

 脱税で一時騒がれた茂木一郎は「クオリア」(質感)の重要性を説きましたが、否定するものではなりませんが、それは個体の条件であって、納税義務と同じで、他者の存在、即ち社会における存在に「哲学ゾンビ」はおかれているということを見逃しています。

 即ち一番重要なのは、質感よりも社会性の植付けが重要だということです。安全性もそこにあります。

 したがって安全性を追求すると、外部からの刺激の認識、その対応プログラムは無限に近いものになります。

  安全性は一つの要素です。その他にどのようなものがあるか考えてみると面白いと思います。

 一時「フレーム問題」と言う言葉が流行りましたが、ロボット作りに欠かせない問題だそうです。(『鉄腕アトムは実現できるか?』松原仁著 河出書房新社参考)

 フレーム問題で、知能的ロボット、哲学ゾンビに必要なのは、「クオリア」という内的な一部の要素でははなく、何度も言いますか、場の認識ができる、社会をみる心の目という要素です。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 脱税問題をつい書いてしまいましたが、「クオリア」はどうも自己満足的な社会性に劣る概念のように思います。

 なぜ脱税をするのか、社会性、最低限他人はどのように思うか、他人の視点に立てるかであると思います。

 西行法師のゾンビ話から脱税の話になってしまいました。

 このブログはブログ村に参加しています。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ネアンデルタール)
2010-03-07 20:32:10
やまとことばの「組(く)む」は、一種の「フレーム」をあらわすことばでしょうが、調べてみると、どうもそのことばは「クオリア」よりも「空間」が意識されている。
「骨組み(フレーム)」とは、骨そのものではなく、骨組みによって作られた「空間」のことをいうらしい。古代人は、どうやらそんなふうに見ていたらしい。
「水を汲(く)む」とは、水が川から桶に移動するややこしい「空間」を表出しているのであって、桶に水がたまってゆくことを言っているのではない。
空間に関係してゆくことを「くむ」という。空間という社会性。やまとことばの「世(よ)」は、「寄(よ)る」の「よ」で、移り変わってゆくさまを表しているのであって、社会というかたまり(物性)でもなく、その「クオリア」のことを言っているのでもない。
考えさせられることはまだまだあって、僕にとっては、刺激的なエントリーでした。
返信する
感動 (管理人)
2010-03-08 05:45:09
>ネアンデルタール様
もう時間がありません(出勤で)。

やはり鋭い!
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。