思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

第三者の審級・雨ニモマケズ

2011年07月11日 | 宗教

 時々話題にしている社会学者大澤真幸(おおさわ・まさち)先生の著書を読んでいると「第三の審級」という言葉が出てきます。

 「審級」という言葉は、法律用語で、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で次のように解説されています。

【審級】

 審級(しんきゅう)とは、同一の訴訟事件を上位の階級の裁判所に上訴することで複数回の審議を受けることができる制度(上訴制度)における、審議の上下関係(審級管轄)を表したものである。訴訟事件に限らず、決定・命令事件についても同様である。

 日本では原則として3階級の審議(裁判)を行う三審制を採用しているが、裁判所は簡易裁判所、家庭裁判所および地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所の4階級に分かれており、その訴訟の性質によって審級が定められている。

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 一つの訴訟(争い)に審判を下す「目(め)」的な存在に、三つの段階の段階があるということを現わしています。では大澤先生の「第三の審級」とはどういうことかというと、これは、はてなブログに解説がありそれによると、

【第三者の審級】

概略
社会学者・大澤真幸の用語。

 具体的な定義としては、「そこに帰属していると想定された(つまりそれが承認していると認知された)ことがらについては、任意の他者が学習すべきことについての(価値的な)規範が成り立っているかのように現れる、特権的な他者のことである*1」としている。

 この第三者の審級は、自己と他者との関係性において、どの他者にも還元できないような実体として立ち現れてくる必要がある。なぜならば、大澤真幸によれば、第三者の審級において、経験や他者における「正当/非正当」を区分けすることが可能となり、一貫性を与えることができるからである。そして、この第三者の審級は規範的な存在であるが故に、他者や経験を先取りし、経験を「経験」と認識したりすることが可能となる。*2

しかし、その一方で第三者の審級が衰退したあり方として「オタク」を見出している。大澤真幸は「オタク」を「意味の持っている重要性と情報の密度のあいだに逆立があること」と捉えている*3。第三者の審級は、自己(これもまた一つの他者として形成されるのだが)と他者の繋がりにおいて形成され、一つのコンテクストを与えるものとして考えるならば、このようなコンテクストの不在は、第三者の審級が衰退したことによって現れていると考えられる。

うまく説明しづらいが、ラカンの「象徴界」「大文字の他者」、ポストモダンの文脈でいう「大きな物語」が概念的に近い。

批判
批判に関しては宮台真司のこの文章を参考。

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こう説明されているのですが、非常に難解です。ではあの評論家の松岡正剛先生の千夜千冊を調べると、大澤先生の『帝国的ナショナリズム』(2004 青土社)についての書評がありました。文中に次のように説明されています。

【大澤真幸氏の「第三者の審級」】

 ・・・「第三者の審級」は大澤の本を読んできた者にはおなじみのもので、大澤のおハコの論理である。それを説明する。

 社会的な善悪の判断や賛成や反対の議論が錯綜したり対立したりしているとき、その社会がつくっている世界観が参照できる第三の超越者のようなものを想定すること、それが第三者の審級である。

かつては、この第三者はたいてい神だった。『ヨブ記』においてヨブと友人たちが議論の均衡に達しているとき神の声が聞こえてくるのは、まさに劇的な審級をあらわしていた。

 しかし、神でなくとも第三者の審級はいろいろありうる。ときに浄土が、ときにエルサレム進軍が、ときにジャンヌ・ダルクが、ときにナポレオンが、ときにヒトラーが、ときに国連が、ときにキング牧師が、ときに天皇が、ときにオリンピック精神が、ときにジョン・レノンがその審級を引き受けた。

SFではあるが、アーサー・クラークの『地球幼年期の終わり』では、UFOに乗ってきたオーバー・マインドが世界の審級者になっていた。

ぼくなどは西田幾多郎の「無の場所」やドゥルーズ=ガタリが持ち出した「アントナン・アルトーの加速する思索」なども、第三の審級のひとつに見える。

<上記サイト・大澤真幸『帝国的ナショナリズム』2004 青土社から>

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 こう解説されると「第三者の審級」が理解しやすくなります。

 各コミュニティがあり、それぞれに普遍的な真理がある。二つが一つのコミュニティを形成するとなると各「普遍的な真理」を超える・超越する「普遍的な真理」が必要になる。

 そんな思考もこの「第三者の審級」から想定できます。

 原理的には二つの相異なる存在がひとつの場において均衡状態にあり争いがならば、そこには普遍的な原理原則が存在しているということで、「第三者の審級」は場の乱れである不均衡状態を均衡に向かわせる次の段階の、さらなる高みの「普遍的な原理原則」ともいえると思います。

 昨日松尾寺の境内に見た、石仏への前掛けをかけた人の心。笠地蔵という物語がありますが、お地蔵さんによくかけられている前掛け、同じように掛けてあげようとの思いからかけた人の心。そこには何か温かみを感じます。

 今後、その舞掛けが取れたり、痛みが出て来れば多分この行為者は修復を繰り返すかもしれません。

 掛ける行為に教義的な根拠から舞掛けを外すとなると、何か大事なものが失われるような気がします。石仏の数だけ作られてきたようですので、日々お参りに来る方だと思います。その方が亡くなるまで行なわれるかもしれませんし、共感した人が後を継ぐかもしれません。

 ある普遍的な真理の教えを弟子が解釈していく、それを引き継いだ人がさらに解釈をしていく。もとを正せば、同じ普遍的な真理から発生しているのに、私どもの教えこそが「真の教えである」であり破邪的に批判をするようになる。

 大澤氏の言葉を使うならば「われこそは第三者の審級」となるのですが、そこにさらなる高みの、超越的な「普遍的な真理」であることの証明ができないところに大きな誤りが出てきます。

 前掛けぐらいの許容もできない。そんな主張は本物なのか、フト考えてしまいます。

 先祖代々受け継がれてきたお位牌を、教義が異なるからと焼却処分にする。歴史のある般若心経は、お釈迦様の言葉ではないからといって、千年以上の歴史の心に耳をふさぐ。

 浄土真宗の教えに耳を傾け、さらにキリストの信仰者に共感し、日蓮のお教えに共感しさらに、農業、科学等の教えを身につけて世の中を見ると次のような言葉が残ります。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンヂャウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモガアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニケンクヮヤソショガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

 これは誰でも知っている、「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれるようになった手帳に記された無題の詩で1931年11月3日の日付があります。宮沢賢治が病床で書いたもので、賢治は1933年9月21日に死去しています。

第三者の審級とともにふと「雨ニモマケズ」を思い出しました。

報いなき善意の奉献(2)・宮沢賢治の世界・常不軽菩薩[2011年01月15日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/5e818e2d741e692726bb22aad98b7572

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