世の中にはテレビを全く見ない人もいるようですが、そのような人から見れば私はテレビ依存型の人間い見られるかも知れません。偏見に満ちている番組が多いがその理由がテレビ視聴拒否者の理由の一つであるのですが、英知という言葉を考えると自分にとっての大きな損失になるように思います。
昨日(5日)のNHKの総合、今はEテレの呼称の教育テレビの番組は多くの刺激を与えてくれました。
総合テレビ「科学が面白い!~科学技術映像祭入選作品~」と言う番組が放送されていて多くの科学技術に携わる人々が紹介され、EテレではETV特集で亡き梅棹忠夫先生の「暗黒のかなたの光明~文明者 梅棹忠夫がみた未来~」という番組が放送されていました。
この二つの番組を見て深く考えさせられたのですが、今朝は前者の科学技術に携わる人たちの話を中心に話したいと思います。
前者の放送は、いろいろな技術関係者登場したのですがその中の作品にアンドロイド、ロボット工学に携わる研究者の話がありました。石黒浩先生という方の研究を中心とする話なのですが、石黒先生ともう一人の浅田稔先生の話の中に印象に残る話がありました。
人間により近いアンドロイドを造り、改めて人間の存在そのものを問い直すアンドロイド研究する大阪大学の知能ロボット工学者石黒浩教授は、
人間とは何か? ということを知ろうとしている。ここまで人間を機械に置き換えてまだ人間なのだ。じゃ人間に置き換えた多残りにもきっと人間の種みたいなものがあるはずだ。
それはいったい何なのか。と考え続けてきているんです。
と語り、もう一人のJSTERATO浅田プロジェクト研究の総括責任者の浅田稔教授は、
人間が自分の存在感をロボットを通じ感じる。容姿が完全に人間でなくとも振舞いが完全に人間でなくとも、自分お存在を感じてレスポンス(応答)してくれるものがあると、そこに何か人間性を感じる。これはコミュニケーションを作っていく上で容易なことです。
と五感の中の、目・耳・触角により相手を認識し反応する赤ちゃんロボットを作り相手の呼びかけに応えるロボット研究からコミュニケーションを主に研究をされていました。
先ほど言いましたがこの番組は、石黒教授の研究に的を当てていましたが、その中で石黒教授は、
ロボットの見かけは、どのくらい人間に近くあるべきか。
ロボットを人間に近づけていくとどうなるのか。
そして自分に似せたアンドロイドを作ることにし、造るに当たり研究員から教授自身の立ち振る舞い等の癖を得て、そのアンドロイドに自分の癖を表現させます。
そしてそのアンドロイドの立ち振る舞いを見て石黒教授は気がつきます。
アンドロイドがする自分の癖を見て、自分の癖ではないと思った。自分のことは自分よりも他人の方が良く知っている。人間とは自分のことは分からない、他人のことの方がよく観察できる。そういう生き物だということに気がつきました。
と言うのです。よく言われることでもある「性格などは、他人の方がよくわかる」は、確かにそのように思います。
これの話から一つの思いをもったのです。
これから話す話は、自分に似せたアンドロイドを使っての人間存在の研究、赤ちゃんロボットによるコミュニケーション研究とは直接関係なく番組の趣旨から外れる話かもしれません。
お二人のこのような言葉を聞いていると、人間そのものを本当に知るものは、人間以外の生き物の方がよく知っているのではという考えが浮かびました。
人間以外の動物に意識や判断能力などの人間と同様の知性などが、どの程度あるのか分かりませんが、そんなあほな!と言われそうなことを考えてしまいました。
飼い猫の性格を語るように、逆に飼い猫が飼い主の性格を考えている。
人間の性格というよりも人間の本質的なもの、根本、人間とは何か、その疑問に答えてくれるもの、それは人間以外のものではないか。
人間が関係する「もの」がそれを答えてくれるのではないか。答えてくれるのではなく応えてくれる。
言葉で語ってはくれないそのもの達。語られるもの(内容)は、応えてくれるものの立ち振る舞いしかないだろうと思います。
ネコが逃げる、犬が逃げる。尾を振り近づいてくる。そこには人間の怖さと優しさを見ているのだろう。
嫌な人間を乗せることを拒否する馬の雄叫びもあるだろうし、傲慢な態度に怒るライオンの雄叫びもあるだろう。
人間が関係した人間以外のものは、人間の振舞いに、人間の傲慢な態度に応え、適った振舞いには関係の存続で応えてくれる。
ここで原発事故を思うのです。地震という地球の振動、それによる津波、核反応の制御不能危機の現実。人間が生活の場で関わるこれ等のものの振舞いは何であろうか。
何を応えとして示しているのだろうか。無情を含む無常でもある現実。諸行無常では済まされない何かを感じなければならないように思うのです。
そして、昨日の深夜には比較文明研究者の梅棹忠雄先生の人類の英知の話。
亡くなられた時の追悼番組では先生の文明論が紹介されたのですが、その時は気がつきませんでした。
梅棹先生は、「科学は人間の業である」と語っているのです。
民俗学を研究する中で世界の民族が持つ文明の中からそのことに気がつきます。余りのも深い話ですので後日アップしたいと思います。
なおこの番組には宗教学者の山折哲夫先生も出ておられて、西洋の文化の底流に流れている棄ての思想とそれと比較しての東洋の仏教で語られる『法華経』の「三車火宅」からみえる救いの思想を語っていました。
日本人が失くしてしまったもの、今気づきを持たなければならないことを話されていました。
人間が関係する人間以外の「もの」の立ち振る舞い。そこには重大な「こと」が示されているように思います。
この番組では「英知」という言葉が語られています。仏教的には智慧と読んでいいかもしれません。
社会学的な俯瞰的な鳥瞰的な視点を持ち世の中を見たときに、見ていることを哲学の次元で論議してみる。要するに思考してみる。それがいかに大事であるか。
昨日は大変勉強になる一日でした。
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