テレビで経済学者の宇沢氏の番組をところどころ見た。宇沢氏は資本主義と社会主義の幻想と現実を見て、社会的共通資本を充実させることが大事だという。社会的共通資本とは水道や電気、ガス、テレビ、ラジオ、医療、教育などの社会生活を支える共通の事業だという。利益追求の資本主義では儲けた人と損する人の格差が大きくなる、企業は工場排水を垂れ流して下流の住民が公害病になる。会社側を擁護する近代経済学者は住民がお金を出して公害防止設備をつくればいいという。近代経済学が想定する経済人は自分の利益を最大化する様に行動するという。現実には村のおきてや社会常識に従っていたが、最近の状況は経済人が増えて利益ばかり求め、国際的に株や外国為替で金もうけして、国の政策にも影響する。。社会主義は計画経済で、官僚的になり非能率になる。格差は少なくなるはずだが、現実には権限を持つ役人がわいろをとって金を持つようになってしまう。公共事業は非営利の組織にして社会を安定的に運営しなければならない。株や為替に影響されてはならないという。経済学説ではウエブレンの制度学派が社会的共通事業を重視したが、ケインズが資本主義でも自由放任にせず、財政支出で経済をコントロールするのがいいという学説を作り実際に恐慌を乗り越えた。その後はサミュエルソンの新古典派や、フリードマンは通貨供給量に注目し選択の自由をとなえた。金持ちのおこぼれで社会全体が潤うという新自由主義の学説が冷戦後を支配した。格差が拡大しばくち打ちばかりのカジノ社会になって、公共企業が民営化され利益追求を求められ困る。破産しそうだ。社会共通事業を安定化させて人間が普通に生きられる社会にしないといけないという。公共企業を支援して民営化でもうけ主義にしないようにしなければならないだろう。
東京の隅田川には歴史がある橋が多くかかっているが、江戸時代の始めには軍事的な理由で橋をかけさせなかった。将軍が鷹狩りや鹿狩りに出かけるときは、川に船を並べて橋を作り川を渡った。こういう橋を船橋といい、千葉県の船橋市などの地名になっている。両国橋がかけられたのは1659年か1661年だといわれている。1657年に明歴の大火があり10万人もの人々が川に橋がなくて逃げられずに亡くなったので、両国橋を架けることにしたようだ。武蔵の国と下総の国をつなぐという意味で両国橋と命名された。それ以降に隅田川の東側に武家屋敷や町家、寺社が造営されて大きく発展した。浅草橋のそばに浅草橋見附の碑があり、ここが江戸城の入口だった。柳橋は船宿が並び、舟遊びや吉原遊廓にいく人々でにぎわった。江戸情緒が今も残っている。1723年から川開きの催しが始まり、1978年からは隅田川の花火大会が行われるようになった。今の両国橋は1932年に竣工し幅24m長さ164.5mである。両国橋の横に国技館がある。近くに回向院があり、ここに幕末には相撲の常設場所があった。赤穂浪士の討ち入りで有名な吉良亭も近くにあった。江戸時代を感じられるところだ。