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スケッチブック 〜写真で綴るスローライフな日々2

写真を撮りながら、日々の暮らしや旅先で感じたことを書いています。
2016年からは撮った写真をイラスト化しています。

橿原 藤原京跡

2013年11月07日 | 文化/歴史/技術
出雲詣での続き。それがどうして藤原京なのか。でも僕には大きな接点を見つけてしまったので、ここへ来るしかないと思いました。藤原京はまだ発掘が完全ではありません。ですが、その規模は平城京や平安京と肩を並べるものであるらしいことが分かってきました。場所は天香具山の近くで大和三山である畝傍山、耳成山に囲まれた地形にあります。実際、朝堂院南門跡地に立ってみると正面に耳成山が見えて左右に天香具山と畝傍山がありました。藤原京は日本で初めて築城された都だと言われます。天皇が住む内裏、政治や儀式を行う大極殿と朝堂院などがあり、現代では赤い柱を建ててその所在地をはっきりさせています。バッタが飛ぶだだっ広い野原ですが、ここに都がありました。今で言う皇居と国会議事堂と霞ヶ関を一カ所に集めて国の中央(首都)としたものです。このスタイルを実際に造ろうとしたのは一体誰か?ということが歴史のクエスチョンです。早い話が藤原不比等その人です。藤原京とは後から学術上つけた名称です。わずか16年で平城京へ遷都されますがその理由は不明です。中臣鎌足(藤原鎌足)の息子である不比等は表立って活躍をしない人でした。鎌足が蘇我入鹿の首をはねてクーデターを成功させ(乙巳の変)、中大兄皇子(天智天皇)の即位後に大化の改新が行われるのですが、その辺りで日本という国の形ができあがったと僕はみています。目まぐるしく天皇の即位が変わる裏で、不比等が影で日本の土台を構築しました。結果的には平城京へ落ち着くとはいえ、この時代に都の築城、大宝律令の発布、記紀の編纂が進むのです。その全てに加担したのが不比等なのでした。国家に必要不可欠なハードウエアとソフトウエア(アプリとOS)を同時に作り上げてしまったのです。iPhoneとiOSとiTunesを同時に世に出したスティーブ・ジョブズみたいな人です。大宝律令では天皇の権限を制限し、摂政である藤原家が権限を代々受け継ぐシステムを組み込むことを忘れず、日本書紀にいたってはペンネームを使い直接編集に携わっていたらしいのです。不比等は策略家であり大政治家でしたから、いくつかの不都合なものを封印しました。自分がしたことを伏せています。出雲はヤマトに国ゆずりをしました。多分、本当でしょう。それで何もなかったはずがありません。出雲大社を建立したのは不比等だと梅原猛は指摘します。オオクニヌシの霊を祀るため祟りがないように鎮魂目的であの巨大な施設が必要だったのだと。その証拠はこれからもいろいろ出るでしょう。日本で最初の都は藤原京と呼ばれています。
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