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Sightsong

自縄自縛日記

ゼイディー・スミス『The Embassy of Cambodia』

2013-12-22 23:19:50 | ヨーロッパ

ゼイディー・スミス『The Embassy of Cambodia』(Hamish Hamilton、2013年)を読む。

コートジボアール出身の女性・ファトゥ。ロンドンの郊外の家で、使用人として働いている。家の人が不在になる毎週月曜日の午前中には、その家が契約するオカネ持ち向けのフィットネスセンターに行って泳ぎ、その後、ボーイフレンドのオゴリで、チュニジア風のカフェでモカとケーキ。

通り道には、郊外だというのに、カンボジア大使館がある。塀の中では、いつも、誰かがバドミントンに興じている。見えるのはラケットと羽根だけ。行ったり来たり、羽根の往復をつらつら眺めつつ、ファトゥはいろいろなことを考える。わたしは奴隷ではない、なぜならば。神はあらゆる者に平等だ、なぜならば。

そしてファトゥは突然解雇される。寒い道の脇に座り、バドミントンの羽根の往復を淡々と眺める。行きは暴力、帰りは希望、などと夢想しながら、ボーイフレンドを待ちながら。

ロンドンにおける若い移民は、成長の揺らぎと、社会の立脚点のあやうさと、異なる考え方とで、常にぐらぐらしている。奴隷として扱われる他者と比較することで、自分のアイデンティティを確認していたはずが、突然、暴力的に宙ぶらりんとなり、感情の制御に苦しんだりもする。そして、それを窓から眺める「私たち」なる存在が、全体を中途半端に包み込む。

1日で読めてしまう短い小説ながら、テキストのなかに印象を封じ込める凝縮感がただごとでない。また、宙ぶらりんの状態を余儀なくされるのは、ファトゥだけでなく、読者だってそうなのだ。

ゼイディー・スミスはまだ30代にしてこの手腕。もの凄い作家なのかもしれない。


大島渚『青春の碑』

2013-12-22 12:57:32 | 韓国・朝鮮

大島渚が日本テレビ「ノンフィクション劇場」(プロデューサー:牛山純一)の枠で作ったドキュメンタリー、『青春の碑』(1964年)を観る。

北朝鮮地域に生まれ、満州で働き、朝鮮戦争(1950年~)の後、韓国の平沢(ピョンテク)に住みついた男・方。彼は朝鮮戦争で孤児となった子どもたちを引き取り、共同生活をするとともに一緒に仕事をしている。

ある日の「東亜日報」の記事。韓国の四月革命(1960年)において学生デモに参加し、右腕を失った女学生・朴が、今では売春をして生計を立てているというのだった。男は驚き、使命感から本人や家族を訪ね、話を聴く。革命により独裁者・李承晩は下野し、傷ついた朴は新政権から顕彰されたものの、父と姉の生活が成り立たないための行動であるというのだった。方はラジオを使って援助を呼び掛け、それで借金を返済、朴を自分の施設に呼ぶ。次第に仲間ができ、仕事を覚えていく朴。だが、やはりそれでは生計を立てることができず、朴はもとの働き場所へと戻っていく。

日本侵略により満州から韓国へと流れ、米ソが頭越しに引いた境界線のために、北に残る親族の消息すらわからない男。歪んだ政治と対峙したために傷つき生活ができなくなった女。その中で、日本は、韓国独立後、親米・親日の李承晩を支え、朝鮮戦争の特需で発展した。ここに登場する人たちが辛酸を嘗めるのは明らかに不条理であり、大島渚はその矛盾を厳しく突く。

しかし、ドキュメンタリー制作の翌年、日韓両国は民衆の頭越しに日韓基本条約(1965年)を結ぶことになる。そのことによる歪みはいまだに噴出し続けている。男が住む平沢(ピョンテク)が、在韓米軍の移転のターゲットになっていることも、終わらない問題を象徴しているようだ。

大島渚は、翌年の『ユンボギの日記』(1965年)において韓国の生活のあり様をとらえ、また、『絞死刑』(1968年)では在日コリアン差別の問題に迫っている。短いドキュメンタリーではあるが、韓国・朝鮮に向けられた大島の重要な仕事のひとつだということができるのだろう。

●参照
大島渚『アジアの曙』(1964-65年)
大島渚『新宿泥棒日記』(1969年)
大島渚『少年』(1969年)
大島渚『夏の妹』(1972年)
大島渚『戦場のメリークリスマス』(1983年)


平井玄『彗星的思考』

2013-12-22 08:37:00 | 思想・文学

平井玄『彗星的思考 アンダーグラウンド群衆史』(平凡社、2013年)を読む。

「「考える」とは蛇行すること。生きて死ぬことも同じである。」

ここに収録されているテキストは、思考の蛇行録である。文字通り、蛇が空を飛んで高みからものを言うことはない。ときに宣託めいて聞こえることばも、それは地上から発せられている。

2011年以後、たとえば、次のような面々が想起の対象となる。「タカを括る」ことも、歯切れのよい分析的な総括を行うことも拒否した面々である。

関東大震災(1923年)時に弟を虐殺され、労働運動に身を投じるものの、三・一五事件(1928年)で逮捕され、「転向」した南喜一
絶えず新しいシナプスを形成することをアジテートしたドゥルーズ=ガタリ
徹底して雑踏に身を置いたライター・朝倉喬司
高踏的なインテリとしてではなく、肌感覚であやういアジア主義を発した竹内好
水俣において、語りによって「低い崇高」を創り出そうとした石牟礼道子
日本の裂け目を敢えて開いて見せようとした谷川雁平岡正明

地上に居ながらにして同時に宇宙を考える思考は、有象無象の胎動をとらえようとしている。そして、有象無象のもたらすものにより、「祖父k」の夢を強迫的に実現しようと試みる迷惑な「孫a」は、いずれ、「暗欝な空」を見ることになるだろうと仄めかしている。

それがどのような形になるかわからないが、確かに、その幻視は絶望であると同時に希望でもあるように思える。絶望のなかには、日本が遠からずイスラエル化することも含まれるのだろう。

●参照
平井玄『愛と憎しみの新宿』


鈴木清 パリ・フォト報告会

2013-12-22 00:15:45 | 写真

鈴木清という写真家への興味が高まっているこのタイミングで、「パリ・フォト報告会」があるというので、関内まで足を運んだ。

 

報告者は、娘さんの鈴木光さん。今年、タカ・イシイギャラリーは「パリ・フォト」に出展するにあたり、鈴木清のヴィンテージプリントを主役に据えた。そのようなわけで、パリに同行してきたのだという、そのご報告。

会場は、グラン・パレ(1900年パリ万博の会場)。何でも福岡ドームほどの大きさだそうだ。わたしも2010年に、クリスチャン・ボルタンスキーのインスタレーションを観たことがあるが、確かに広い(>> リンク)。この広い会場が多くのギャラリーに割り振られており、上からは直射日光が降りそそぐ、そんな場所である。

どうやら、鈴木清という人は、プリントの管理に無頓着だったそうで、ヴィンテージプリントもオリジナルプリント(本人が焼いたものでも、それが一定期間後であればヴィンテージではない)も一緒くた。それどころか、画鋲の穴があいていたり、裏にとっさのメモが書かれていたり。ただ、ヨーロッパの愛好家はそのようなことに鷹揚であり、むしろ手の跡があるというので好むことさえあるという。

日本でさえなかなか観る機会がない写真家だけに、ヨーロッパではなおさらである。今回、鈴木清の作品に接する機会があって、かなり好意的に受けとめられたらしい。そもそも、鈴木清の「再発見」だって、オランダにおいてである(2008年)。報告会の会場には、そのときのポスターも貼られていた。

それでは日本においてはどうなのか。「聞き手」の方が言うには、鈴木清ファンは多いが、その誰もが理由をうまく説明できない。写真集が高騰してなかなか目にすることができないという理由もあるかもしれないが、それよりもやはり、写真世界のカオス性によるところが大きいに違いない。

興味深いことに、鈴木清はロバート・フランクとの深い交友があった。写真に対する身の置き所に、共通するところがあるのかもしれないと漠然と思う。鈴木清はコラージュを作品ではなく遊びのように作っていたというが、ロバート・フランクにもそのような手仕事がある。

会場には、『流れの歌』新旧版、『ブラーマンの光』、『天幕の街』、『夢の走り』、『愚者の船』、『天地戯場』、『修羅の圏』、『デュラスの領土』という写真集がずらりと並べられた。確かに、これらを古本で揃えるといくらになるのか、考えるだけで恐ろしい。ひとつひとつを観ることができて、貴重な体験をさせてもらった。

特に、インドを撮った『ブラーマンの光』が、あまりにも魅力的だった。ハンピとかカジュラーホとか、大変なところにまで足を運んでいる。果たしてどれだけの時間をかけたのだろう。

●参照
鈴木清