長谷川修一『聖書考古学 遺跡が語る史実』(中公新書、2013年)を読む。
著者は、『旧約聖書』を二次史料、遺跡の発掘調査結果を一次史料とする。それにより、無批判に信仰する対象としての聖書から、史実のみならず、多くの人の信仰を集めるに至った歴史的な経緯までを視ることになる。また、日本の記紀神話がそうであったように、聖書も、それが書かれたときの権力の正統性主張に用いられてもいる。
これが面白いうえに、あらためて歴史の勉強にもなる。
アブラハムは実在したのか、そして、いつの人だったのか?たとえば、聖書に基づいて、ダビデ、ソロモンらのイスラエル王国時代(紀元前10世紀ころ)から遡っていくと、紀元前22世紀ころという計算になる。しかし、アブラハムら族長の年齢は一様に長いことになっている。アブラハムは175歳、イサクは180歳、ヤコブは147歳まで生きた。これはとても事実とは考えられない。それだけではなく、シュメールのウル第三王朝の遺跡、当時ラクダがいたかどうか、といった検証から、この大きすぎる命題に迫っていく。結論はまだない。
アブラハムらの族長だけではない。ヨセフ以降拠点としたエジプトで、モーセが生まれ、やがてユダヤ人を率いてエジプトからパレスチナへと導くわけだが(出エジプト)、これさえも、まだ史実とは断言できないという。ただ、もしモーセが実在したとすれば、紀元前13世紀、エジプトのラメセス2世の時代だとしている。セシル・B・デミルの映画『十戒』(1956年)でも、そのように描かれていた。
モーセがユダヤ人をパレスチナの外部から導いたのではないとすれば、どうなるのか。彼らは山地に定着したが、パレスチナ内部で平野部から移り住み、独自のアイデンティティと歴史とを持つにいたった可能性もあるのだという。
そういえば、ジグムント・フロイト『モーセと一神教』では、精神分析的に、モーセをエジプト人だとみなしていた。これだってトンデモ本かもしれないが、そのような揺れ動きを許す歴史的な位置づけだということだ。
史実がどうあれ、つまるところ、精神的遺産としての歴史の共有という点が重要だということになるのだろう。著者の言うように、批判と否定とは異なるのである。
●参照
○ジャック・デリダ『死を与える』