なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ305 10年前

2021年03月14日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第305回。3月14日、日曜日。

大震災から10年の月日が流れました。
忘れないと思っている人も、忘れたくとも忘れられないという人も、共にあの日を振り返り手を合わせたと思います。
松林寺では、その時間に鐘を撞き、本堂で一人供養の経を読みました。
ぽかぽかと暖かい日でしたが、あの日もこんな暖かな日だったらよかったのになと思いました。
あの日私は松林寺に居ました。
ドイツから客人が来ていました。
静岡大学に留学していた学生でした。
どういう経緯で最上町だったのかよく覚えていませんが、何でも農業を学んでみたいといって、その当時ハウスで花の栽培をやっていた義兄のところに来ていたのでした。
せっかくだから日本の文化も学んだらということで、お寺に来たのでした。
三島由紀夫と椎名林檎が好きで日本語を学んだと言っていました。
坐禅を体験した後、習字をやってみようということになり、硯と筆と紙を並べました。
彼はイラン系で名前をプーヤと言いました。
日本に来てから、ある人が名前に漢字をあててくれました。
「風」の右肩に「○」を付けてプー、それに「矢」でプーヤ。
「じゃあそれを筆で書いてみよう」と書き始めました。
はじめて筆を持ち、一枚書きましたが「うまく書けない」。
もう一枚書いて「うまく書けた」と言ったところにグラグラと来ました。
地震のないドイツで育ったプーヤには初めて経験する大地の揺れでした。
190㎝もある大男が私にしがみついて「どうすればいいの」と震えるので、ニコニコしながら「大丈夫、すぐに収まるから」となだめていましたが、いつまでも揺れが収まらず大きくなっていくので、笑顔を取り繕っている余裕がなくなり、母親を伴って「外に出よう」と飛び出しました。
しばらく銀杏の木の根元で揺れが収まるのを待ち、庫裡に戻ってラジオをつけました。既に停電でテレビはダメでした。
寒かったので電気を使わないストーブを本堂から持ってきてそれを囲みました。寒さばかりでない理由で震えていました。
ラジオでは三陸沖を震源とする大きな地震があったこと、栗原で震度が7あったこと、津波の恐れがあることを繰り返し何度も何度も放送していました。
やがて間もなく津波が襲ってきたこととその甚大さを各地から伝えていましたが、何せラジオでは想像するにも限界があります。
宿用院に居るカミさんと子どもの無事を確認し、とにかくプーヤを何とかしなければならないと食料の確保とローソクなどを準備していました。
やがてニュースは福島第1原発での異常事態を報道し始めました。
それを知ったプーヤの母親がドイツから電話をよこします。
「何とかしてすぐに帰ってきなさい」と言っていると。
海外ではきっと、原発はもうダメで、放射能が拡散して日本は人が住めなくなるという情報だったのではないかと想像します。
母親の心配ももっともなことでした。
「そんなこと言っても帰れないよ」と彼は言っていました。
飛行機が飛んでいるのかいないのか、空港まで行く移動手段もないのですから。
一日半で電気は復旧し、映像で津波の様子を見て心が凍りました。
電話やメールも通じるようになり、いろんな情報が入ってくるようになりました。
シャンティボランティア会の動きも入って来て、被災地へ向かうという動向が見えてきました。
頭を叩かれたように「そうか被災地に行かなければ」と気づきました。
とりあえずは行くだけ行こうと、水とパンなど最低限手に入るものを車に詰めて、近所の青年小野君と二人で被災地へ向かったのは発災から4日後の3月15日のことです。
ガソリンが制限され、高速道路の通行も警察署の許可を得た車両のみに制限されていたので、関東方面から東北に向かう支援も福島県や宮城県の南部に集中していました。
幸い日本海側から太平洋側への東西のルートは規制がなく、なるべく北へ向かおうと気仙沼を目指しました。
県境を越え宮城県に入り、最も震度の大きかった付近を通りました。
ところが、阪神の震災の時のように軒並み建物が潰れている光景は見えませんでした。
「あれ、大丈夫なのか?」と胸をなでおろしながら、海が近づくと、景色は一変しました。
交通規制を避け、峠道を下ったその沢に、瓦礫が押し寄せていたのです。
海まではまだ遠く、山の中だというのに。「こんなところまで」と絶句しました。
ニュースは本当だったんだ、と瓦礫を見て津波が現実だと受け止めざるを得ませんでした。
気仙沼の清涼院さんと抱き合って無事を確かめ、そこから北へ北へと向かいました。
沿岸を走る国道45号線は入り江ごとに分断され、山道を迂回しながら大槌町吉里吉里まで行きました。
行けども行けども、津々浦々が被災地でした。
車の中では声も出なくなっていました。小野君と二人車の中で泣きながら走っていました。
何ができるのか、ジッと考えていました。
以来、被災地を走り回ってきましたが、今記録を読み返してみると、このブログでも「東日本大震災」のカテゴリーで132本も記事を書いていました。
あれは現実だったのかと、遠い昔のことのようにぼんやりした記憶になっています。
因みにプーヤは、初回の5日間被災地を回っている間に、何とかバスや電車を乗り継いで無事に静岡まで戻ったようでした。

これからも朝課で「被災地早期復興、原発事故早期終息、被災者各々身心安寧」を祈り、「東日本大震災被災物故者諸精霊」の菩提を供養し続けます。

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今週はここまで。また来週お立ち寄りください。





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