なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ490 絶滅危惧種

2024年10月27日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第490回。令和6年10月27日、日曜日。

 

昨日土曜日は、花の鶴楯を創る会の秋の作業、終わって慰労会でした。

作業は、山道の急坂に丸太の横木で階段を作る作業でした。

上り幅を決め、横木の丸太を2本の杭で押さえ段面を調えていきます。

同時に周辺の枝を払い、草を刈っていきます。

60段の階段を作るのに今日一日でできるかと思いましたが、手はずが分かってくると作業は早く、15人弱の男たちはちゃっちゃと仕事をこなしていきました。

何と昼前には全ての作業を終えました。仕事のできる男たちです。

協働作業を終えた後の慰労会が楽しくない訳がありません。

次々とビール、酒、焼酎が開けられ、良くしゃべり且つ良く飲みました。

 

この世代の男たちは、長男が家を継ぐということにさほど疑問を感じずにきた最後の世代かもしれません。

小さい頃から「お前は家を継ぐんだ」と言われて育ち、周りも同じような環境でしたから、そんなもんだと受け止めて来たように思います

責任感はあったでしょうが、決して悲観的でも自己犠牲的でもなかったように思います。うーん、多少はあったか。

それよりも、残る者たち同士でどのように生きていくか、楽しいことを作っていくか、助け合っていくか、そこに注力してきたのだと思います。

もう少し若い者たちは、生活の場をそこに置きながらも、その中にあるいはその外に個人の楽しみを見つけようとしているように見え、そこに住む仲間たちと共に生きるということに意味を見出そうとしていないのかもしれません。

集団から個へはこの国の生活文化の時代的な流れでしょうから、抵抗したり止めようとしたりしても詮無きことですし、善悪の問題でもないでしょう。

集団にさほど疑問を感じずに来た者たちは、それが当然のことであり、それが楽しく楽なことであるからそうしているに過ぎません。

田舎の人口減少、流出の問題も、そこに楽しみを見つけられなければ他所に求めるのは当然のことで止めることはできません。寂しさを感じないわけでもありませんが、仕方ありません。

古い時代の男たちは、ただ自分の楽しみに素直に従っているだけです。

その姿を見て楽しそうだと思う人がいれば多少は残っていくかもしれませんが、それは知ったことじゃありません。

絶滅危惧種。なのだと思います。

田舎の農業は共同作業が基本でしたから、集団から孤立してしまうことは即ち死活問題でした。

集落の中では、仲間外れにならないように悪目立ちしないように、個性を消しながら生きていく必要がありました。

生きづらさの中に安全性を見出さなければならない状況だったといえるでしょうか。

農業が機械化によって共同作業の必要がなくなっていき、田舎にも個の流れが浸透してきました。

集落の目を気にして生きる圧力から解放されてもきました。

 

集団と個の価値観の境目の時代を今生きているのだと思います。もうずいぶん個に寄ってきていると思いますが。

そんな時代に、集団の喜びを大事に感じる生き残りのような人間たちがいるのです。

それが絶滅危惧種。

流れに乗れない、パソコンを使えない、朝早く目が覚める、仕事ができる、夕餉の前にコップを持たないではいられない、酒を飲まないでうまくしゃべれない、そんな男たち。

そんな男たちの憩いの場を作っていきたい、保持していきたいと思います。花の鶴楯の事業を始めたのもその意味です。

だってこれが最後だもの。楽な方、楽しい方にしがみついてもいいじゃないですか。

絶滅危惧種は絶滅危惧種の楽しみ方をしているに過ぎません。

どうぞ冷ややかに見守っていてください。

 

今週の一言

「自分にも、他人にも、正直に」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ489 一番若い今日

2024年10月20日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第489回。令和6年10月20日、日曜日。

 

好きな俳優の一人西田敏行さんが亡くなりました。

色んな役をいい味で演じられていましたね。

画面にこの人が現れると安心感を感じたりしました。

印象に遺っているのは『遺体 明日への十日間』という映画で、東日本大震災の釜石の遺体安置所を舞台にした、ジャーナリストのルポルタージュ、実話が元になっている作品です

西田さんが扮する相葉は葬儀社で勤務経験のある民生委員で、ナンバーが付けられ「死体」として扱われることに心を痛め、自ら申し出て安置所の運営にかかわることになります。

ブルーシートが敷き詰められた体育館に次から次へとご遺体が運ばれてきます。

雪が降りしきる中そこを訪ねた相葉は、土足のままでは申し訳ないと靴を脱いで裸足で入って行く。

「死体ではなく、ご遺体ですよ」と。

実際には危険があるので靴を脱ぐことはなかったそうだが、おそらくは西田さんの強い思いでそうされたのではなかったかと思います。

そして、一人ひとりのご遺体に言葉をかけながら顔を拭い、化粧を施していきます。

理不尽な死を受け入れられない遺族は、家族と向き合うことを拒みます。

次第にきれいになり、生前の顔に近くなると遺族の受け止め方も変わっていき、感謝の気持ちを持って手を合わせるようになります。

どんな状況であろうとも、ご遺体を尊厳を持ってその命を見送ることができるようにというテーマだったと思います。

「ご遺体であっても話しかけられると人としての尊厳を取り戻すんだよ」という言葉が心に響きました。

西田さんの人柄がそのまま役柄に投影されて心に残るシーンでした。

 

もう一つ、散歩のお伴として聴いているNHKのラジオ番組『新日曜名作座』は、西田さんと竹下景子さんとのいわゆる二人芝居で、何年も続いている番組です。

たくさんの登場人物を二人が演じ分けるのですが、年齢も人柄も職業も違う人々を方言も含めてそこにその人がいるように、声だけで演じ分けるすばらしさにいつも聴き入っていました。

毎週楽しみにしていましたが、それが聴けなくなると思うととても寂しく残念でなりません。

 

先週は葬儀が二つ続きました。

数え年92と98の高齢でしたが、今さらながら、改めて、人は死ぬんだなと感じさせられます。

みんなみんな死ぬのです。

そのみんなの中には、もっと身近な、知人や友人、親族や家族、そして自分も含まれます。

この歳になると、出会う人の数よりも見送る人の数の方が加速度的に増えていくことは否めません。

他人の死に向き合うことは、自分の死にたいする受け止めの準備運動なのかもしれないと思います。

体が思うように動かない、疲れが取れない、ぐっすりと眠れない、薬ばかりが増える。

そんな老いの自覚の中で、それでも生きるか死ぬかは命にお任せしていくしかない。

寝ても疲れが取れない朝など、病気も疲れもなかった少年時代のように、この体をきれいさっぱりクリーニングでもできないものかと思ってしまいますが、それは無理というものでしょう。

命は完璧に不可逆的にできています。

今より古い過去には戻れないのです。

年齢はただ重ねて行くだけ。引き算はありません。

やがて死んで行く身として、今日の自分が一番若いという事実。

誰かと比べることではなく、自分の命をしっかり見つめれば、究極、自分の人生で一番若い今日をどう生きるのかに問題は収斂されます。

過去は問わない、明日より若い今日の過ごし方、それを他人の死から学んでいくしかありません。

ああ、私もやがて死ぬ。

それまでにどう生きるか。とりあえず今日、どう生きるか。

 

今週の一言

「みんな死ぬ、なのに今生きている」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ488 まかせれば自由

2024年10月13日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第488回。令和6年10月13日、日曜日。

 

昨日12日は母親の命日でした。

ごく近い親族で三回忌を勤めました。

思い出すことはあっても、寂しいとか悲しいとか、亡くなって以来未だに涙がこみあげてくることはありません。

無感情人間になってしまったのか、何なのか理由は分かりません。

突然のことだったからかもしれませんが、それでも丸2年も経つのに思い出して感極まるということがありません。

逆に不思議な感じです。

母は19歳で寺に嫁ぎ、保育士をしながら寺を支え子どもを育ててくれました。

その言動から、父である住職よりも寺が好きだったのではないかと思います。

まじめで几帳面できれい好きで、怒るということがまずなく笑顔で人に接することができる人だったので寺族に向いていたと思います。

子どもの頃体が弱かったらしく、滋養強壮にマムシ酒を飲まされていたとか、とても農家の嫁は務まらないと女学校に行かせてもらい、お寺に嫁ぐことをその母親の策略で決められたようでした。

お寺の境内にあった公民館が季節保育所となり、農繁期に臨時の保母として勤め始め、それがきっかけで保育士の道を歩むこととなりました。

寒い冬凍った道で転倒した後遺症が出てむち打ち症でしばらく苦しみました。

首にコルセットを付けて痛々しい姿だったことが記憶にあります。

それからは健康オタクのように、いいと言われることは片っ端から試し、病院や診療所に通い、人にも勧め、そのために生きているような生活でした。

検診で胃がんが発見され、4分の3を摘出し、食が細くなりました。

「体が弱いから」「胃がないから」と言いながら、それから20年以上も元気で生きてきましたが、アルツハイマー型認知症になり、少しずつ機能が低下していきました。

ひ孫がやって来るとニコニコしていたのですが、感情が薄れてくるのか、感情はありながら表情が作れなくなるのか、だんだん笑顔も見えなくなってきました。

寝たきりの介護度4となり、デイサービスとヘルパーとの併用で自宅介護を始めました。

お試しで1回だけという言い様で初めてデイサービスに行ってきた帰り、「楽しかったべ」と聞くと「楽しいわげないべ、だれ」と、頑としてもう行かないと言い張りました。

父親の時もそうでしたが、チーチーパッパの子ども扱いされるのがプライドを傷つけるのかと思いました。

特に母親は保育士でしたから、その扱いに嫌悪を感じたのかもしれません。

そんな母も、意思表示がうまくできなくなり抵抗する気力がなくなったのか、扱われるままに車椅子ごと迎えの車に乗せられていきました。

娘たちはその様子を「ドナドナ」と言い交わしていました。

本人の意思があろうがなかろうが、当人の扱いは周囲の人の都合で決まるのであり、それはやがて当然の処遇となります。

子どもをダマすと言いますが、老人もダマされます。

ダマされるのだと知りながら、それに身を委ねるしかなくなるのです。

 

そして思います。

委ねるしかないのだとしたら、身を任せるしかないのだと。

抵抗すると、それは不自由に感じることでしょう。

身を任せることによって、心は縛られず自由になるように思います。

認知症は幸か不幸か抵抗する意志も奪ってくれるように見えます。

死の準備として、身を任せることができることはその受容につながるのではないかと思えます。

そうでなければ、あれほどの穏やかな顔で逝くことはできないのではないか。

本当にきれいな顔でした。

 

あとはひと 先は仏にまかせおく おのが心のうちは極楽(貞心尼)

 

晩年の良寛さんと親交のあった貞心尼の辞世だと言われる歌です。

そうであるならば、認知症も死も怖くはない。

怖くはないように、死へ向かう体と心の連動はプログラムされているのかもしれません。

母は、極楽の心の中に旅立ったのだと受け止めています。

 

今週の一言

「極楽はあります」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 

 

 


サンデーサンライズ487 慈悲の力

2024年10月06日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第487回。令和6年10月6日、日曜日。

 

先週日曜日から土曜日の昨日まで岡山県を巡回していました。

矢掛町、高梁市、新見市、津山市、新見市と、5日間6教場での特派布教です。

今年度で最後の特派巡回となりますので心してお勤めさせていただきました。

実は岡山県は3回目で、前回は6年前の平成30年、西日本豪雨災害のあった年で、教場の予定だった真備町源福寺さんは本堂の天井近くまで浸水し、急遽洞松寺さんに会場を変更して勤めたのでした。

その後コロナ過により特派布教は実施されず、昨年はホール2か所においての合同開催だったようで、各寺院を教場にしての開催はそれ以来とのこと、ご縁を感じます。

法話の所要時間が90分の設定で、途中休憩をはさんで勤めましたが、それが聞法者にとっては疲れず、話に集中ができてよかったようです。私も楽でした。

第一会場では洞松寺僧堂の修行僧11名も聴聞されましたが、どんな感想をもたれたのか気になるところです。瞼を拭っていた修行僧もいました。

巡回中、能登豪雨で行方がわかなくなっていた中学生の女子が福井県の沖で発見されたという報道がありました。

もしかして奇跡的にどこかで生きているのではないかと一縷の望みを抱いていただろう家族にとっては残念な結果ではあったろうと思いますが、それでもよかったねと思いました。

遺体であっても見つからなければ、家族はいつまでもいつまでも探し続けることだろうし、落ち着かない心のまま暮らすことになったでしょう。

遺体であっても、姿を見れば会えたと思うでしょうし、抱きしめて、葬儀もして、きちんとお別れも言えただろうと思います。

この間親はどんな思いで過ごしていたのか、また本人の女子もどんなに怖かったか、痛かったか、苦しかったか、最期に「お母さーん」と叫んだだろうか、と想像すると胸が張り裂けそうになります。

見ず知らずの人の痛みが、我々の心に真っ直ぐに突き刺さり、痛みを感じることができます。

そういう力を我々は持っています。その力を慈悲心と言います。

「人々分上ゆたかにそなわれりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるには得ることなし」と道元禅師は教えています。

慈悲心は我々にちゃんとゆたかに備わっているのだけど、行動しなければ現れてこない、ないのと同じ、自らの行為によってはじめて備わっていたと自ら気づくことができる、というのです。

その行為とは菩薩行ですが、その基本的な行為は合掌であると言ってもいいです。

合掌は、相手を敬い、感謝の思いを表わし、幸せを祈る姿です。

その姿がそのまま菩薩の姿であり、菩薩の心です。

慈悲心が発露して菩薩行となり、菩薩行によって慈悲心に目覚め、慈悲心を育て、さらに菩薩行が継続されていくのです。

菩薩の行いが菩薩であるというのが曹洞宗の教えです。

 

これまで合わせて21年間特派布教師を務めてきました。

全国各地いろんなところに連れて行ってもらいました。

複数回派遣された県も一度も派遣されなかった県もあります。

布教師と現場の都合のマッチングですから、致し方ありません。

各地各教場において、十分にその任を果たしたかと思い返してみると忸怩たる思いがあります。

話の途中で席を立たれたこともありました。そういう時は焦ります。

せっかく集まってくれた檀信徒に、つまらない思いのまま帰してしまっただろうという怖れがあります。

法話は生もので、その場その場の1回こっきりの真剣勝負。いわば一期一会です。

100人に対する90分の法話であれば、一人で合計150時間の時間を預かるという緊張感があります。

できれば、来てよかった、有意義な時間だったと思ってもらいたいと思います。

それが出来たかなと思う法話もあれば、後悔慙愧の法話もありました。申し訳ないことです。

これまでお世話になってきた各教場の皆様、関係者の皆様に感謝とお詫びを申し上げたいと思います。

また、その間留守を守ってくれた家族にもお礼を申し上げなくてはなりません。

ありがとうございました。 合掌

 

今週の一言

「合掌は菩薩の姿」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。