なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ395 明星から見る

2022年12月08日 17時18分48秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第395回。12月11日、日曜日。

東京に来ています。
一昨日はシャンティの理事会。昨日はシャンティの日と、タイのプラティープ先生の祝賀会でした。
プラティープ先生は、タイのスラムに生まれ、16歳の時にスラムの子どもたちの教育「一日1バーツ学校」を始め、アジアのノーベル平和賞と呼ばれるマグサイサイ賞を26歳の時に受賞、その後上院議員も務められた方です。
シャンティの難民支援活動の中で関係ができ、そのスタッフだった秦辰也さん(現近畿大学教授)と結婚されました。
昨年4月、タイ日の関係強化の功績が認められ、旭日中綬章を受章された、その祝賀会でした。
古い関係者も出席され、懐かしいひと時となりました。

12月8日はお釈迦様お悟りの日、成道会でした。
各地の道場では、その故事に倣って1日より集中して坐禅三昧の行持を勤め、8日未明に成道を祝います。
松林寺では、4日の梅花講総会において講員と共に成道会を勤め、住職は毎朝の日課としての坐禅を行ずるにとどめました。
その故事とは、6年の苦行の末、菩提樹の根元に坐り8日目の明けの明星を見て成道されたとされています。
その時の言葉が「明星出現の時、我と大地有情と同時成道す」というものだったと正法眼蔵にはあります。
その意味は、「自分とこの大地とその大地の上に生きるすべての生命が、自分と同時に悟りをひらいた」ということになります。
お釈迦様一人が悟りをひらいた、というのであれば分かりますが、無生物も生物も全て自分と同時に悟りをひらくとはどういうことでしょうか。
私はこのように受け止めています。
「自分」という個の存在として周囲を見れば、色んな命がそれぞれ別々に存在しているように見える。
命と命が、仲良くなったり争ったり、別個の存在として関係を構築していると見える。
それはちょうど、ジグソーパズルの一つ一つのピースのような存在という見方です。
凸ったり凹んだり、足りないように見えたり邪魔に見えたりして、互いにけん制している。
しかし、お釈迦様は、この世界を俯瞰して、全てのピースが完全に収まった完成品だと見えたのではないか。
凸ったところは凹んだところを補うためのものだった。
いや、元々境界線などなかった。命はピースではなかったのだ。

明星を見て、というのは、明星の視点で見えたということではないか。
その当時、この世界が地球という球体であるという認識も自転しているという認識もなかったでしょう。
どこまでも続く平面の大地の上に生命は生きている、と。
そこに明星は昇ってくる。
明星出現、全ての大地有情は同時に明星に照らされる、明星を見る。
その時お釈迦様の視点は、自分から離れ、明星の視点から大地を眺め、全ての命を眺め、自分自身を眺めることができたのではなかったか。
すると、この世界は一枚の絵のように見えた。
しかも静止画ではなく動画として。
全ての命は、この大地の上に見事に調和して、余すことなく欠けることなく存在している。諸法無我。
全ての命は、雲や川の流れのように、一瞬たりとも留まることなく流れ明滅している。諸行無常。
そのように見えた時、全ての苦しみから解放されて心の静けさが得られる。涅槃寂静。
お釈迦様がそのように見えた時、それはお釈迦様一人の姿ではなく、大地有情全体が悟りの絵となる。
お釈迦様が明星を見る、明星が大地有情を見る、大地有情がお釈迦様と一体となる。見ているものと見られているものが一つになる。
お釈迦様と、大地有情と、明星と、三つの視点が一体となって悟りの言葉は生まれたのではないか。
ただ、動画であるだけに、悟りの絵も一瞬の瞬きであり、固定されたものではない。次の瞬間、争いの修羅の絵に変わることもある。
だからこそ、たった一人の坐禅が悟りとなり、たった一人の悟りが大地有情の悟りとなる。
お釈迦様が見た成道の絵に倣い、行じなければならない。この世を悟りの世界にし続けなければならない。
怠らず坐禅弁道せよ、という道元禅師の説示になるのでしょう。

「シャンティと坐禅」ということを考えています。
それについてはまた今度。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


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2 コメント

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明星とは? (大閑道人)
2022-12-11 05:59:12
とてもすごい、いや、素晴らしい(明星の)考察でした。
参考にします。
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ありがとうございます。 (三部義道)
2022-12-11 16:06:39
そういうとらえ方でいいのかどうか。不明ながら書いてみました。
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