なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ487 慈悲の力

2024年10月06日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第487回。令和6年10月6日、日曜日。

 

先週日曜日から土曜日の昨日まで岡山県を巡回していました。

矢掛町、高梁市、新見市、津山市、新見市と、5日間6教場での特派布教です。

今年度で最後の特派巡回となりますので心してお勤めさせていただきました。

実は岡山県は3回目で、前回は6年前の平成30年、西日本豪雨災害のあった年で、教場の予定だった真備町源福寺さんは本堂の天井近くまで浸水し、急遽洞松寺さんに会場を変更して勤めたのでした。

その後コロナ過により特派布教は実施されず、昨年はホール2か所においての合同開催だったようで、各寺院を教場にしての開催はそれ以来とのこと、ご縁を感じます。

法話の所要時間が90分の設定で、途中休憩をはさんで勤めましたが、それが聞法者にとっては疲れず、話に集中ができてよかったようです。私も楽でした。

第一会場では洞松寺僧堂の修行僧11名も聴聞されましたが、どんな感想をもたれたのか気になるところです。瞼を拭っていた修行僧もいました。

巡回中、能登豪雨で行方がわかなくなっていた中学生の女子が福井県の沖で発見されたという報道がありました。

もしかして奇跡的にどこかで生きているのではないかと一縷の望みを抱いていただろう家族にとっては残念な結果ではあったろうと思いますが、それでもよかったねと思いました。

遺体であっても見つからなければ、家族はいつまでもいつまでも探し続けることだろうし、落ち着かない心のまま暮らすことになったでしょう。

遺体であっても、姿を見れば会えたと思うでしょうし、抱きしめて、葬儀もして、きちんとお別れも言えただろうと思います。

この間親はどんな思いで過ごしていたのか、また本人の女子もどんなに怖かったか、痛かったか、苦しかったか、最期に「お母さーん」と叫んだだろうか、と想像すると胸が張り裂けそうになります。

見ず知らずの人の痛みが、我々の心に真っ直ぐに突き刺さり、痛みを感じることができます。

そういう力を我々は持っています。その力を慈悲心と言います。

「人々分上ゆたかにそなわれりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるには得ることなし」と道元禅師は教えています。

慈悲心は我々にちゃんとゆたかに備わっているのだけど、行動しなければ現れてこない、ないのと同じ、自らの行為によってはじめて備わっていたと自ら気づくことができる、というのです。

その行為とは菩薩行ですが、その基本的な行為は合掌であると言ってもいいです。

合掌は、相手を敬い、感謝の思いを表わし、幸せを祈る姿です。

その姿がそのまま菩薩の姿であり、菩薩の心です。

慈悲心が発露して菩薩行となり、菩薩行によって慈悲心に目覚め、慈悲心を育て、さらに菩薩行が継続されていくのです。

菩薩の行いが菩薩であるというのが曹洞宗の教えです。

 

これまで合わせて21年間特派布教師を務めてきました。

全国各地いろんなところに連れて行ってもらいました。

複数回派遣された県も一度も派遣されなかった県もあります。

布教師と現場の都合のマッチングですから、致し方ありません。

各地各教場において、十分にその任を果たしたかと思い返してみると忸怩たる思いがあります。

話の途中で席を立たれたこともありました。そういう時は焦ります。

せっかく集まってくれた檀信徒に、つまらない思いのまま帰してしまっただろうという怖れがあります。

法話は生もので、その場その場の1回こっきりの真剣勝負。いわば一期一会です。

100人に対する90分の法話であれば、一人で合計150時間の時間を預かるという緊張感があります。

できれば、来てよかった、有意義な時間だったと思ってもらいたいと思います。

それが出来たかなと思う法話もあれば、後悔慙愧の法話もありました。申し訳ないことです。

これまでお世話になってきた各教場の皆様、関係者の皆様に感謝とお詫びを申し上げたいと思います。

また、その間留守を守ってくれた家族にもお礼を申し上げなくてはなりません。

ありがとうございました。 合掌

 

今週の一言

「合掌は菩薩の姿」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。