ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

永六輔さんが亡くなりました

2016-07-17 23:50:39 | ひとりごと

永六輔さんが亡くなりました

こちらが一方的に知っているだけで面識があるわけではありません。
友人のツイッターで、永さんのことが書かれていました。ちょっと紹介 ・・・
 ・・・ 「永六輔さんが亡くなった。永家は三河から家康について江戸に出てきたお家だそうで、徳川びいきでした。徳川昭武の記念館の準備で夢中だった頃、羽田空港で突然声をかけさせていただいたら、しばらくして戸定歴史館を訪ねてくださいました。」 ・・・
 * 戸定歴史館は、松戸にあります。徳川昭武は、最後の将軍・徳川慶喜の弟で最後の水戸藩主、戸定は水戸藩別邸、戸定歴史館は大名屋敷を再現したものです。
 
甲高い声で物腰は柔らかいが、戦争を嫌悪することを体臭として発散していた人でした。
江戸文化や古き物への愛着や憧憬が深く、その知識が豊富だったことも記憶しています。
今このブログにたびたび登場する神社のことは、かって自分は、神社の社叢の薄暗さや陰湿さが嫌いだったのですが、ある切っ掛けでたびたび訪れるようになり、その価値観を変えるのに、永さんの神社の知識に助けられた部分があると思っています。

足立神社があります。安達も安立も足達も阿達も同類です。かつて武蔵野に足立郡なるものがありました。その範囲は広大で、中心は武蔵一之宮です。武蔵一之宮は現・大宮氷川神社のことです。この足立郡の一帯に村社を建てる必要があったとき、氷川神社と祭神を同じくしながら、同名を憚って、郷名をつけた”足立神社”が各地にできました。ですから、旧名を異にしながら明治期に改名されたものが多い。その頃の足立郡の名残は、東京の足立区と足立神社だそうです。この知識は、永さんのラジオ放送からです。知れば、永さんは仏門の住職の息子であったそうです。

戦中の永さんの疎開先は、信州・小諸の三岡というところのようです・・・(小諸から小海綿に乗り換えて三岡駅からはリヤカーを借りて……。)。そこで幼年を過ごし、当時の上田中学(現・上田高校)の一年の時東京へ戻ったということです。
この、信州・佐久は、早稲田高校の同級生で仲間だった渥美清が、仕事の疲れたとき誰にも告げずに訪れていた第二の故郷だったそうです。
このきっかけは、永さんと渥美さんの二人だけのエピソードかもしれません。

後日訂正:
高校の同級生ではありませんでした。
永さんの高校生時代、「ラジオつくり」に熱中していたことがあり、入り浸っていた秋葉原で顔なじみになった違うグループの「ラジオつくり」の仲間、だったそうです。訂正します。

昭和を駆け抜けた骨っぽい人が、また逝ってしまいました。
今日は、「水原ひろしの”黒い花びら”」でも聞きましょうか。

  

 


寺山の廃寺・と ひまわり

2016-07-17 15:41:59 | 神社・仏閣

  寺山の廃寺・と ひまわり

地籍は、浦和・緑区 寺山 ・・・

「寺山」を地名に持つということは、かって、周囲の信仰を集めた寺があり、付近は緑が多いところ、と勝手に想像した。
その寺に興味を覚え、散策した。
場所は、”浦和東高校”裏手、後背を緩やかな斜頸にした”植木農家”の中に存在した。
ちょうど、”さぎ山記念公園”と”浦和東高校”の中間に位置する。

”浦和東高校”は、日本代表のサッカーのゴールキーパー・川島選手の母校です。

その建物は、少し荒れていた。屋根はトタン屋根、錆び赤が斑になっている。
建物の前に祠が立ち、脇にも朽ちた祠があった。

祠の中の、仏像

朽ちた祠の中の、烏帽子像


山号も寺名も確認できるすべがなく、どうも、”廃寺”の如く,である。

手前の畑に、夏の花・ヒマワリが咲いていた。