ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

大宮・普門院

2015-02-17 12:11:22 | 街 探求!

大宮・普門院

由緒 : 今は昔・・、応永三十三年(1426)の正月のある夜のことである。
武蔵国一ノ宮、氷川大明神(現、氷川神社)の神主、岩井常陸介が不思議な夢を見た。
 ・・ 白髪の老翁が枕元に立って、「いま社頭に一人の高僧が仮寝の夢を結んでいる。この方は希有な知識があり、高僧である。よってこの方をこの地にとどめて布教せしめよ、西方の観音堂に案内するがよい。」 ・・ といい終わると消えた。・・神主は目覚めて、そ夢を不思議に思い、社頭に行ってみた。 ・・ と、一人の僧が社殿で寝息をたてている。この寒夜に安眠できるとは、よほどの修行者 ・・この僧こそ曹洞宗の巨匠、月江正文禅師であった。 ・・これが普門院創設の端緒となった。

時の領主・金子駿河守大成は、寺号を経『観音普門品偈』の普門をとって普門院として、自らの城郭地に開基し、月江正文禅師を迎えた。
大宮・大成 ・・・地名の裏を覗くと、”大成”の由来が見えてきました。地名に、人名が残る例は幾つかありますが、共通しているのは、その領主が地元民に愛されていた証のように思えます。

*氷川神社の神主・岩井家は、おそらく物部系流であろうと推定する。神道・大明神の最高位は大祝であり、大祝は、”おおほうり”と読む。それに準じるの神職が祝であり、いつの時代にか、”ほうり・祝”が”いわい”に読み替えられて、岩井家になった、とする推論である。・・・しかし根拠はない。

この寺は、幾つかに顔があるが、・・・

この寺は、江戸末期の幕臣・小栗上野介の菩提寺で墓がある。しかし小栗の墓は三つある。

小栗上野介は上野・倉渕で斬首されたが、普門院の寺小増が密かに盗み帰り、当地に埋葬したという。
当時逆賊の汚名があり、密かに埋葬するも目立たぬように、丸石にしたという。

小栗上野介・・ 
小栗上野介は文政10年生まれで、二千五百石の幕府直参であった。秀才であった彼は、万延元年三十四歳の時井伊大老から日米通商条約の遣米使節の一員としてアメリカへ派遣された。帰国後、外国奉行、勘定奉行、江戸町奉行、歩兵奉行、海軍奉行と数多くの役職を歴任。・・慶応四年、鳥羽伏見の戦いに敗れた将軍徳川慶喜に対し、主戦論を強硬に主張して、その職を解任された。以後、薩長維新から、幕府強硬派の主導者として睨まれ、追跡される。上野介は、上野・権田村(現、倉淵村)で捕縛される。「農兵を養成し謀反を企てようとしている。」として逆賊として烏川原で斬首刑となった。四十二の歳だった。
こうして、幕府側の開明派の俊才は、幕府側に生まれたが故に維新側から睨まれて散ったという。

・・大成館跡, 金子駿河守大成が居住したと伝えられる室町時代の館跡。 形状は正方形で面積は三万平米に及ぶ。土塁・空堀・水堀等の遺構とその残影が境内西側にあったが、今はない。

大成館(大成城)跡:当時の面影はない

『新編武蔵風土記稿』・・「普門院、上野国白井村多林寺末、大成山と号す。本尊正観音。開基は金子駿河守なりと云。永享七年(1435)八月廿四日卒し、幻公庵壽居士と諡せし由寺記に載たれど、その事跡詳ならず。又當境内は駿河守の城跡なりともいへり。」
  ・・境内にある金子駿河守の墓・・「是も文字摩滅して詳ならず。永享の二字わづかに読べし。」とある。
『新編武蔵風土記稿』・・「古は金子庄とも称せしよし伝ふれど、當村は昔金子駿河守の知行なりしゆへ誤りいへるならん。又大成は彼駿河守の名乗りともいへり」
・・普門院門前には「金子」の表札を出した大きな家が一軒あった。金子駿河守と繋がるかどうか、は詳しからず。

普門院からそう遠くない地に櫛引氷川神社がある。荒脛巾(アラハバキ)を祀ってあるという。さらに天目一命も祭神にしているという。

櫛引氷川神社


荒脛巾(アラハバキ)は、産鉄と関係があると言われるが、普門院のある大成に鴻沼川が流れ、川に架かる橋は”鍛冶橋”といい、この川沿いは”鍛冶屋堤”と言っている。

確かに、由緒書きに”アラハバキ”の文字はあるのだが、祠は見つからない。(右拡大図)


『新編武蔵風土記稿』には・・「鍛冶屋堤、今は堤もなし、昔鍛冶の住せし処と云」という記録が残る。

鴻沼川:この川の堰堤は、かって鍛冶屋堤といったという。鍛冶橋は、この辺りだが、見つからない。

そういえば、少し前、入間川の沿岸の”砂鉄の寺”を調べたことがあった。

 参照:(2014-11-28 22:28:41 | 歴史) 加治丘陵の麓にある寺 
      ・・・ 砂鉄の寺、高正寺と加治丘陵 ・・仏子と加治と金子

 

入間・仏子の金子家は砂鉄の寺・高正寺の開基で加治・鍛冶族。普門院の開基の金子家は付近に鍛冶橋や鍛冶屋堤を持つという。
偶然にしては、不自然に思う。まして、江戸期に関東郡代の伊那忠治の荒川の東遷までの中世に、入間川は足立の郷・氷川神社の氷川の原の懐深くまで剔り込んでいたのだ。入間川流域を制していた金子党が武蔵一宮の氷川の原を金子党の翼下に治めることは極めて容易に思う。そこで金子一族のことを調べて見た。

 

普門院の”金子駿河守大成”は、武蔵七党の村山党の一支族・金子党の系流なのかも知れない。それにしても、なぜ入間川流域を勢力範囲にしていた、製鉄氏族・金子一族が、武蔵一宮の近くに出現しているのか、それも鍛冶の職業を伴って ・・ この歴史的背景は大変興味を惹かれます。金子駿河は、金子家光のことだという説もあります。

 

『新編風土記稿』には「境内は(金子)駿河守の城跡なりともいへり、今も東北の方に、から堀など残り住居の跡なる事知らる」と言う記述がある。そもそも新編武蔵風土記稿とは、文化・文政期(1804-1829)に編まれた武蔵国の地誌です。境内は、普門院の境内のことで、江戸時代には城跡があり、空堀などがあって住居跡を示している、とあります。
源平合戦の頃・・・
鎌倉時代少し前 金子彦十郎家忠(入間の豪族、武蔵七党の村山党に属し、多摩から指扇辺りまでを領地)は、源頼朝の平氏打倒に抵抗し、河越重頼や畠山重忠らとともに平氏に与していたという記録が残っています。坂東平氏が、頼朝に抵抗したのは最初だけで、やがて畠山重忠を中心に坂東平氏は、頼朝に靡いて行きます。金子党も、例外ではなく頼朝の御家人になっていきます。
やがて時が経ち、室町時代・・・
入間川流域を拠点にしていた金子党の金子家範は加治の瑞泉寺に館を構えます。瑞泉寺には金子一族の宝篋印塔が今も残っているそうです。入間川・仏子には、家範の子金子親範が住み、砂鉄の寺・高正寺を開基しています。
この頃、大宮・指扇は入間川の下流でした。入間川流域に勢力を伸ばしていた金子党は、金子家範の末裔を指扇に置き、金子山城を作って居城としていたようです。大成城は、金子山城の支城的存在で、城と言うより、職業氏族・鍛冶集団の中心的館ではなかったか、と思われます。この領主が、大成城の金子駿河守家光で、その祖は金子家範であり、武蔵七党の村山党であり、金子党でありました。

 

この金子駿河守は、金子駿河守家光とあり、他書に金子駿河大成ともあるが、家光が名を示し、大成は法名であろうと思われる。
この指扇の金子氏は、戦国時代に金子彦十郎の代になって、河越氏と争い敗れ滅亡したと伝えられている。

 

 

普門院・伽羅の木

これほどの大きなキャラは珍しいという。幾星霜を過ごしてきたのやら ・・・


 

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