ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

入間川原に、野仏と庚申塔 ・・・

2014-10-08 02:59:25 | 草・木・花 風に吹かれて

入間川原に、野仏と庚申塔 ・・・

○野 廃寺跡に 墓の守  ・・ 

場所は、川島領大囲堤の南縁、左に白山太神社。
右にカーブするような堤が荒川右岸堤防(荒川森林公園自転車道)。
荒川沿いが、”三又沼ビオトープ”。

荒川と入間川の合流地点の入間川原は、”すすき”の群生がある。
”すすき”を見に散策していると、すすきなどの雑草に隠れて、
野仏と庚申塔があった。  ・・・墓地と五輪塔もある。
この川は、少し上流では、4つの川(越辺川、大谷川、小畔川、入間川)、が合流する。

堤防の入間川沿いに、三竹遺跡があります。
 ・・・ 平成22年1月の発掘調査で約1500年前に造られた古墳時代後期の古墳跡三基が発見。

野仏と庚申塔 ・・・は、この古墳遺跡にあります。

庚申塔、野仏、五輪塔 ・・・ですから、かって寺があったかも知れません。
洪水で、ついに廃寺になった跡地 ・・・

ここは、すすきの群生地

秋風に、すすきの穂がゆれています。

入間川原から堤防を超えると、秋桜の風景

 

参考1:白山太神社 ・・はくさんだいじんじゃ。太を”だい”とよむ。”大”ではない。

参考2:川島は、荒川、入間川、越辺川、市野川に囲まれて、付いた地名だと。いう

 


御嶽山噴火

2014-10-03 01:08:04 | 時事ニュース

御嶽山噴火

 

 

9月27日(土)、正午少し前 ・・・長野県と岐阜県に跨がる「御嶽山」が噴火した。ニュース画面より転用 ・・

御嶽山の噴火を伝える「信濃毎日新聞」号外


「御嶽山」は、木曽の”おんたけさん”と呼ばれ、3067mは、日本で十四番目の高山である。高さは十四番目であるが、木曽山脈にも飛騨山脈にも属さない、独立峰である。
この山は霊山として名高く、近年までは、修験者以外の入山を拒み続けた山で、火山としての登録はあるものの、火山としての活動や災害の悲劇を余り聞いたことがない。
生を、木曽山脈の反対側で受け、御嶽山の"歌”や"言い伝え”や"禁制”を聴きながら育ったものとして、入山者・登山者の多さに驚きを感じている。
10月2日、御嶽山噴火での入山者の死亡確認は47人に達したと報道されている。

この、「御嶽山」に対する思いは、愛知県、岐阜県、長野県の人達他と、それ以外の人達では、温度差の違いを感じる。
「御嶽山」に対する”思い入れ”の温度差の違いを、独断と偏見と思い込みがあることを恐れずに、自分の考えを書いてみたいと思います。

木曽川は、濃尾平野を貫流する。

木曽川


美濃と尾張、岐阜県と愛知県である。木曽川は、濃尾平野の”母なる川”である。古代より、木曽川は、広大な濃尾平野の水田にとって恵みの川であり、その源流に、御嶽山はあった。自然と、木曽川と御嶽山に敬慕の念が生まれ、それが信仰に変わっていった。
川とその上流に位置する源泉の山が、信仰の対象になるのは、日本では希なことではない。江戸時代に、荒川上流の秩父へ、とりわけ三峰山へ、江戸の市民は、参詣に、足繁く通ったという。山岳の奧に鎮座する神社の奥の院は、ほぼ例外なく、川の源流に位置する。

木曽川の源流、御嶽山には、「御嶽神社」が鎮座する。
 ・・・ 同じ御嶽神社の字で、「みたけ」と読む場合と、「おんたけ」と読む場合とでは、神様が違うらしい。
・・○「みたけ」神社は、蔵王権現を祭った神社、総本社は吉野金峰山寺の蔵王権現堂。
・・○「おんたけ」神社は、木曽御嶽山の木曽御嶽神社が総社。木曽系の御嶽(おんたけ)神社。

御嶽山・頂上付近

この木曽御岳神社は、全国に分社があるが、極めて面白い、特徴的なデータがある。つまり、御嶽神社の神社数だが、愛知県が一位、岐阜県が二位、三位と四位は、ほぼ同数で長野県と埼玉県が占める。この一位と二位の愛知・岐阜は、ともに濃尾平野で、木曽川の恩恵を受けていることからして頷ける。御嶽神社の所在地の長野県が、後塵を拝しているのは面白い事実だが、埼玉県が上位に顔を出しているのは、不思議な現象である。

これには、歴史を眺めると、訳がある。
江戸時代、御三家の尾張藩が、木曽御岳神社を庇護し続けた歴史が、御嶽山岳信仰を全国に広めたと見て良い。
この尾張藩が、木曽御岳神社を庇護し続けた前提は、木曾家の重臣・山村家の存在を抜きには考えられない。
戦国時代の木曽氏(木曽義昌)は、信玄の武田家と姻戚を結び、やがて武田を離れて秀吉につき、そして家康の家臣となった。この経緯も面白いが、長くなるので別の機会とする。
家康の家臣になった時、木曾義仲を祖とする木曽家の重臣の千村家と山村家は、家康の特殊な家臣となった。"山林政策を専門とするテクノラート官僚”である。”木曽路は全て山の中である"ので、彼等は、山林に詳しい。そこで、千村家と山村家は、幕臣として、「山林奉行」を命じられる。さらに山村家は、木曽が尾張藩に宛がわれた時、尾張藩の重臣(家老)になっている。千村家も、同様に、信州南部の山岳と遠州の山岳を知行されている。
つまり、山村家は、尾張藩家老、幕臣で「山林奉行」。千村家は、寄り合い大名格、幕臣で「山林奉行」という、二足のわらじを履いた、特殊な幕臣だったわけである。
なお、千村氏は、明治維新になって、本来の義仲の末裔と言うことで、木曽氏に苗字帰りをしている。
江戸時代に、山岳信仰の御嶽神社は、一時幕府の禁制の宗教になったとき、尾張藩は、この禁制を解くべく幕府を説得し、その信仰は自由になったと言われる。この山村家が、尾張藩の家老として、熱心に御嶽神社を庇護し続け、さらに藩主に訴え続け、御嶽神社を整備したのだ、という。

こうして、木曽川は、濃尾平野の、母なる川になり、御嶽山は、尾張・岐阜の地域の信仰の山になっていった。この山は、尾張藩と関係が深い山として、伐採は禁じられて、さらに神域として、人家を作るのが憚られた。

伝承として残るのは ・・・「木曽の檜は、枝一本に腕一つ、木一本に首一つ」といわれ、住民は恐れて近づかなかった。

文豪の島崎藤村の実家は、尾張藩家老で幕臣・木曽代官の山村家の家臣で関所番・高瀬氏と同族で本陣宿を経営。藤村の父は、国学・平田派の学徒で飯田と交流。 ・・・この部分は検証していません。

”木曽路は全て山の中である"は、名文として知られる。冒頭の一文で、木曽谷の風景が一挙に脳裏に刻まれ、「夜明け前」の藤村の世界に引き込まれる。この冒頭の一文は、藤村記念館にある生原稿では”木曽路を全て山の中”となっている。掲載前の校正で、書き換えられたらしい。校正が、藤村自身か校正員かは定かではない。その後、藤村からの原文復帰がないことから、藤村が了解していたのは確実と思われる。

さて、”木曽路を全て山の中”である、としたら、いささか意味不明で、文法的にも疑問でもある。 ・・・生原稿は、こうした”謎”も、時には提供するらしい

御嶽山は、休火山のように思われているが、それでも数は少ないが、噴火の事例はある。しかし、神域として、人家がないために、過去の噴火の災害は、人的被害にまで至っていなかった。

木曽川の浮世絵

木曽節
------------------------
木曽のナー 中乗りさん
木曽の御岳(おんたけ)さんは ナンジャラホーイ
夏でも寒い ヨイヨイヨイ
合唱:ハー ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ

袷ょ(あわしょ)ナー 中乗りさん
あわしょやりたや ナンジャラホーイ
足袋もそえて ヨイヨイヨイ
合唱:ハー ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ

人はナー 中乗りさん
人は見目(みめ)より ナンジャラホーイ
ただ心 ヨイヨイヨイ
合唱:ハー ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ
------------------------3番まで;


木曽節:”中乗りさん”は、筏乗りの中央に乗る人で、船頭さん。、木曽檜を筏に組んで、尾張まで運搬する時の、筏舟歌

木曽の観光案内パンフレットから

木曽川・江戸時代御嶽山の噴火の死者の方の出身地を見ると、愛知や岐阜の方を多く見受けます。

 

山登りが好きな方と同時に、こんな昔からの信仰もあったのではないかと・・・
いや、信仰までも行かないが、御嶽山は”なぜか懐かしい”思いがあったのではないかと思い、その懐かしさの源流を自分なりに探って見ました。
当たっていないのかも知れませんが ・・・、 また行方不明の人数のニュースが流れました。

・・・亡くなった方に、ご冥福をお祈りします。 合掌!


ちいさい秋 見つけた  ・・・見沼たんぼ

2014-10-02 00:11:53 | 草・木・花 風に吹かれて

ちいさい秋 見つけた  ・・見沼たんぼ

 

本当は、この芝川の土手には、”すすき”がいっぱい、の筈だが ・・・ 寸前に刈り取られたようだ!

ちいさい秋  木の実

 

 

ちいさい秋 秋桜

ちいさい秋 すすき

10月はじめ ・・・

刈田 と 柿 と すすき が撮りたかったのだが ・・・ 残念!