川島町散策 ・・・歴史の由来を求めて
いつもは、川島町は、通過するだけの所なのですが・・・・・
越辺川の白鳥に振られてしまい、川島町の興味の湧くところを散策します。といっても、行動は車ですが。なにやら今年の白鳥の飛来はまだ、未だに姿を見せずと聞きます。越辺川の土手を散歩していた老婦人が、対岸の土木工事が原因ではないかと言っていました。川の水に、工事のなにかが混ざり、”えさ”がいなくなったのでしょうか。そうだとしたら、残念・・・
この写真は、去年のものです。
越辺川の白鳥・・
大宮から、関越高速に乗る時や、東松山・嵐山・越生・東秩父牧場などへ行く時は、荒川を、開平橋で渡り、荒川・入間川の中堤防を通って、R254に出ることが多い、通い慣れた道です。最近は関越高速に乗る時は、上尾から桶川インターに出て、圏央道経由が多くなりましたが・・・。この開平橋・中堤防からの道の途中に、以前から気になる地名が二つありました。
一つは、大屋敷。もう一つは、狢(下狢交差点)。
・・大屋敷・・
この大屋敷を調べて見ると、伊奈備前守の陣屋のあった場所と言うことです。利根川の東遷、荒川の西遷を構想して、利根川の東遷を手がけた伊奈忠次が死去すると、三代伊奈忠治は、意志を継いで荒川の西遷を手がけます。忠治は忠次の次男に当たります。川島町の伊奈備前の陣屋は、忠次のつくったものだろうと推定されています。目的も、荒川の西遷工事の指揮所兼住居だろうことは容易に想像が着きます。
以下、「武蔵国郡村史」・・・「ここに陣屋跡あり、東西97間(約176m)、南北84間(約153m)。慶長(1596-1615)の頃伊奈備前守(伊奈忠次)の陣屋あり、寛永(1624-44)の頃之を廃すと口碑にいう」と記されています。また、「武蔵田園簿」によれば幕府の直轄領として武蔵国22郡の内16郡におよび、石高約28万石、村落数512ヶ村に達していました。こうしたことから伊奈氏を中心とする近世初頭の河川改修や新田開発にあたり、一時的な地域支配の拠点として複数に及ぶ中規模の陣屋を配置していたものとも推定されます。・・・
こうして、年代を確認すると、この陣屋がつくられたのは伊奈忠次の頃、この陣屋を廃したのは伊奈忠治の頃と言うことになります。そうして、伊奈備前陣屋は、大屋敷という地名のみを残して歴史から忘却されます。
この陣屋が、廃墟にされた理由は・・・荒川の西遷は、元和年間(1615-24)に吉見領囲堤、 寛永6年(1629)武蔵国久下~川島を終えたことになっていますから、西遷工事の為の陣屋の役目を終えたと言うことでしょうか。この頃寛永16年(1639)、松平伊豆守信綱が川越藩主 に移封してきます。・・・この、大屋敷があった地区は、昔は「伊豆丸」と呼ばれていたらしく、伊豆守が領主になった時、地名が領主名と同じことを憚り、地元が遠慮して陣屋を壊し、地名も出丸(イデマル)に替えたと言う説が存在します。理由はこんなところでしょうか。裏付ける資料が存在しないため、この推論が当たっているか、定かではありません。伊奈家が造ったとされる大工事のための陣屋のほとんどは、家臣に下げ渡されている例が多いのだそうで、ここの特異な例は、少し興味を湧かせます。
ちなみに、・・・現在の出丸小学校が、大屋敷(伊奈陣屋)跡と言われています。
・・出丸小学校と付近の風景
もう一つは、・・ 狢 ・・(下狢交差点)
・・・狢・ムジナ(貉、狢)とは、主に穴熊のことを指す。狸やハクビシンを指す場合もある。
近くの風景・・・
農家と田圃以外なにもないような・・・。昔、「むじな」がここにいたのだろうか。それ以外に、この地名が着く理由が思い当たらない。「のどか」という言葉が適切かどうかも分からない。どうして、”むじな”なんて、地名にしたのだろうか。なぜか気になります。
川島町は、名が示すように、川に挟まれた田園地帯です。北は市野川を挟んで吉見町と接し、南は入間川を挟んで川越市と接しています。その入間川は、下流で越辺川を合流し、越辺川は少し上流で都幾川を合流します。その都幾川も高麗川を合流します。古地図で、それらの川を眺めていると、市野川や入間川は大宮や浦和に、剔って流れ込んでいたようです。こうした川の合流点を持つ川島町は、どう見ても氾濫原だったような気がします。
この氾濫原は、関東郡代(代官頭)伊奈家の、荒川の西遷によって、”穏やかな農地に変わった”のでしょうか。川島町を、歴史を尋ねて、ほっつき歩き(車ですが)、見て回ると、確かに穏やかな農地が広がっているように思えます。
西川材・・・川島町を流れる河川の名を見て歴史を思ったのですが、これらの川は”西川材”という江戸時代の杉や檜の材木のいかだのルートではないかと確認します。この杉や檜は、良質だったため、江戸の西の川から供給されるので”西川材”としてブランド化されます。西川材の材木の供給地は、飯能、毛呂山、越生、日高と歴史書に記載されています。中心は飯能、飯能は昔から、今でも材木店と材木問屋がやたらと多い町です。飯能は奥地の名栗の山から名栗川に木を切り出し、入間川にいかだを組んで運び、荒川から江戸深川に木を運びます。同様に日高、毛呂山、越生は高麗川や都幾川に木を出して、越辺川経由で荒川を経て墨田川の深川に木を運びます。・・・かつて、この西川材の木材の産業と運搬ルートに、伊奈郡代(代官頭)が関わっていたのではないかと調べたことがあります。・・資料は未発見・・ 江戸深川は材木問屋の町でかつ花街、深川木場は材木貯蔵地。材木をいかだで運んだいかだ師達は、運搬を終え、問屋に無事材木を届け終わると、荒ぶる魂を、深川の花街で鎮めたのではないでしょうか。
・・・江戸の町発展の、衣食住の住の部分を担った、さらに度々起こる江戸の大火の復興に、奥武蔵の山の杉や檜は、おおいに役だったのではないか・・・と振り返っています。
・・鳥羽井沼辺りへ・・
鳥羽井沼(とばいぬま)とは、埼玉県比企郡川島町にある市野川の洪水でできた河跡湖です。
・・・いまでは、鳥羽井沼は、完全に”釣り堀”になっています。少し眺めている間だけでも、”太公望”は、ひょいひょいと、鮒らしい魚を釣り上げています。
川島町鳥羽井の荒川の土手の西側にあり、鳥羽井沼自然公園として整備されている。沼はひょうたんの形をしており、そのなかほどの沼のほとりには、水を司るという九頭龍大権現と一目連大明神が祀られています。
これが全景ですが、左が一目連大明神、右が九頭龍大権現。
一目連大明神 九頭龍大権現
*明神も権現も、神仏習合から後付けされた神のようです。人格の残る仏が化身して神になる時の謂われかたのようです。
鳥羽井沼の二つ神社の入口付近に、二つの碑が建っています。
一つは、この神社の由来、今一つは土地改良事業の施工記念碑で、当時の知事の畑さんの事業の経緯の文が彫られている。
写真に撮って、後から読みかえして見ようと思ったが、写真から解読できず・・・
・・碑、手前の縦長が神社由来、奥の半分木に隠れた横長が土地改良の碑
記憶に辿って、要旨を再現してみると・・・
江戸時代、この地の洪水の後整備をして、ここの領主川越藩主松平OO(確か知恵伊豆ではなかった)が、水の神の神社を、伊勢から勧請したことが書かれています。九頭龍大権現が水の神なのは分かりますが、一目連大明神は水の神なのでしょうか。少し疑問が湧きます。
土地改良事業の施工記念碑の方は、・・・この地帯一帯が養蚕の為の大桑園であったこと、絹産業がナイロンの普及で壊滅したこと、桑園が放置され荒れて、広大な土地が不法投棄の場と化したこと、等書かれ、地元の熱意で、三地区に分けた大規模農業のモデル地区にしながら、土地改良事業計画が始まり、ようやく成ったことなどが記されています。
・・・記憶に頼ったため、細部は間違いがあるかも・・・、雑把な文です。川島図書館で確かめましたが、川島町史ではよく分かりませんでした。
・・沼に鳥が浮かびます。白鳥ならぬ黒鳥です。黒い水鳥は、記憶にありません。
・・・あとで、他のブログを覗いていたら、黒い水鳥の写真があった。オオバンという鳥かも知れない。
参考・・・一目連(いちもくれん、ひとつめのむらじ)は桑名の多度神社別宮の一目連神社の祭神。一目連は天候(風)を司る神とされ江戸時代には伊勢湾の海難防止の祈願と雨乞いが盛んに行なわれた。
一目連が神話の話、「ダイダラボッチ」や「ひょっとこ」に繋がるかと思ったが、そこは無理でした。ここでは「鍛冶の神」としても繋がらなかった。