上野国佐野を拠点とした豪族、藤原秀郷の末裔が、比企に来て、比企一族を名乗ったとされる説があります。どの程度たどれるか、調べて見ます。例により、事実と事実をつなぎ合わせながらの構想のストーリーです。事実が誤認であれば、構想は虚構のストーリーとなる危うさは自覚しております。
・・大雷神社の大ケヤキ
この神社は、大雷・・おおいかずちじ・神社といい、日置部一族の信仰の基だったようです。大雷神社は神域が広く、鎮座する山一体が領域で、この神体山の中に一族の墳墓=大小の古墳を抱えております。恐らく一族は、この神体山の麓周辺に散在して住居し、仏教の初期の普及に多大の貢献をしたようです。寺院の屋根を覆う「瓦」の生産は重要な任務だったようです・・・大谷古窯。
・・・・・ 武蔵丘陵、川越ゴルフ場の中に、神社と古墳はあります。またこの山の大谷側は、比丘尼山とも呼ばれていた様です。大雷神社は、山火事の貰いで焼失した後縮小改築され、神社と古墳を残して神域は、今はゴルフ場に変わっています。
日置とは・・・
比企の地名のおこり. 比企は埼玉県の中央部に位置し、山地から丘陵、そして沖積地へ と変化に富んだ地形が特徴です。平安時代に編纂された『延喜式』には武蔵国の郡名 として比企が登場しますが、「ひき」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀 ...と関係するという説が有力です。ちなみに、埼玉の比企の他に、鹿児島にも日置郡があります。
もう少し詳しく見て見ましょう。日置部は太陽祭祀を司り、暦に精通していきます。暦の精通は、当初は豊漁に通じ、農耕の発展で豊作に通じて、祭事の中心になってきます。こうなってくると、日置部は、一部をシャーマンに残し、祭事の道具の埴輪や土偶に関わる土師氏になっていきます。
こうして、「日置部は大和国家の新たな支配地へ中央から送りこまれた尖兵だったようです。彼らは武力集団であると同時に、太陽を祀る祭祀集団であり、測量をする と共に、また、製鉄や土器製作の新しい方法を身につけた技術集団で・・・日置だけを取り上げましたが、弊岐・戸岐・戸木・部木、比企などの地名も、同じ仲間と考えますと、埼玉県の比企(ひき)郡があります。・・・「これらが大和朝廷の支配圏の拡大にともなって生まれた地名である」ことは、たぶん間違いないとおもえます。
こうして、日置の郷に古代窯がうまれます・・・
比企地域には、西暦600年前後、6世紀後半から7世紀にかけて、桜山(東松山市)、、五厘沼(滑川町)、和名(吉見町)の埴輪窯、須恵器窯で、須恵器が生産がはじまっていた。8世紀になると、南比企丘陵-鳩山町を中心に、嵐山町、玉川村の一部に多くの須恵器窯がつくられていきます。
そのうち、仏教の伝来と普及によって、地方にも寺院が建立されてきます。朝鮮あたりからの仏教伝来は、宗教だけでなく文化や技術も伝来します。その中に瓦の技法も当然あったと思われます。こうして、須恵器と瓦の生産がさかんに行われるようになりました。
瓦窯跡の誕生・・・
古代寺院は、比企地域とその周辺では7世紀前半に寺谷廃寺(滑川町)に現れ、その後、7世紀後半以降、馬騎の内廃寺(寄居町)、西別府廃寺(熊谷市)、勝呂廃寺(坂戸市)、小用廃寺(鳩山町)などが造営され、須恵器窯で瓦の生産が行われるようになった。そして、この時期になると、大谷瓦窯跡(東松山市)や赤沼国分寺瓦窯跡(鳩山町)が生産を開始している。
新しい仏教の普及には、瓦の屋根で作られた寺院が、宗教として必要不可欠だったのかも知れません。ですが、当時の寺院はほとんどが廃寺になってしまったようです。
昭和30年5月に2基の窯跡の発掘調査が行われ、完全な形で掘り出された1基です。 瓦窯跡は、瓦を焼いて製作した窯のことで「登り窯」とよばれる形態をもっています。また、瓦の製造は、寺院建築とともに始まったものです。 この窯跡は、地山を掘り窪めて構築したもので、前長760センチメートル、約30度の傾斜をもっています。幅60センチメートルの焚口は、瓦を立てて補強してあります。燃焼部は一段深く掘り込まれて、一つの部屋を形成しています。また、瓦を利用して13の段が形成されているなど、全体に補強工作が慎重に行われています。出土遺物は、軒丸瓦、平瓦、丸瓦、文字瓦などです。年代としては、白鳳時代と思われます。
また、大谷瓦窯跡の付近に、日置部一族の墓と覚しき古墳群があります。三千塚古墳群というのだそうです。
三千塚古墳群 案内板より
昭和31年2月市指定史跡
大岡地区には、雷電山古墳を中心として、数多くの小さな古墳が群集しています。これらの多くの古墳を総称して「三千塚古墳群」と呼んでいます。 三千塚古墳群は、明治二十年~三十年頃にそのほとんどが盗掘されてしまいました。・・・三千塚古墳群からは、古墳時代後期(六~七世紀)の古墳から発見される遺物(直刀・刀子・勾玉・菅玉など)が出土しています。 雷電山古墳は、これらの小さな古墳を見わたす丘陵の上に作られています。この古墳は、・・帆立貝式古墳(前方後円墳の一種)です。雷電山古墳からは、埴輪や底部穿孔土器(底に穴をあけた土器)などが発見されています。 雷電山古墳は、造られた場所や埴輪などから五世紀初頭(今から千五百年位前)に造られたものと思われます。また、雷電山古墳の周辺にある小さな古墳は、六世紀初頭から七世紀後半にかけて造られつづけた古墳であると思われます。
日置族は出雲臣族です。このうち紀伊・日置首は天照大神の子天穂日命の後裔で、大江・秋篠・菅原朝臣と同祖です。また、京師・日置臣は菅原朝臣を賜り、土師宿禰と同祖です。さらに日置部の伴造である幣岐君は応神天皇の子大山守命の後裔です。従って、日置族は天照大神、応神天皇の子孫ということになります。901年藤原氏によって太宰府に流された日置族(土師族)菅原道真は同族です。
また、この古墳群のあるところに、大雷神社というのがあります。
大雷神社由緒沿革・・・・・
当神社は伊邪那美命の御子大雷命を奉斎し、御創建は今から壱千百十餘年前清和天皇の御代貞観元(八五九)年巳酉四月十二日と社伝に言い伝えられている。貞観六(八六四)年辛亥七月二十二日には武蔵従五位下大雷神従五位上を授けられ、三代実録武蔵風土記等の古文献にも記載されている如く古代より有名な神社である。・・・大神を祭祀してより五穀豊穣が伝えられ盛夏干旱の時村民挙げて降雨の祈願をし・・・て深く信仰された社殿は、雷電山と号する古墳の嶺を平坦にして大神を鎮座し、社殿の周囲には昔日埴輪の残片が多く古考の説に此の地は武蔵国司の墓と伝承され、付近一帯には陪臣の墓と思われる数百の古墳の群が散見せられた。
・・・安政四(一八五七)年、近くの山火事により類火して本社火災の折、御神体と奉斎せる幣串自から社外に飛び去りしより神顕の広大さに村民崇敬者益々畏敬の念を深め、この幣串を今も御神体として奉斎する。・・安政四年の火災後五年の歳月を経て現本殿が再建された。
昭和四十三年十月二十三日
・・・・・この神社の本分がが書かれています。穀物生産の基となる”雨ごいの祈願”です。このように、多くの神社は”水をもとめる”ところから出発しています。例えば、奥の院とか御神体山とか呼ばれるところは、水源の源流地を指しているようです。雷も雨を伴います。これこそ、太陽祭祀を司る日置部の本質のところです。
ここまで見て見ますと、日置部の日置(ヒキ)一族が、土師氏としてこの地に土着し、古代窯をもち、最初は埴輪などを焼き、やがて寺院と関わって、瓦を焼いたのだろうと確信してきます。
日置(ヒキ)の郷は、やがて比企の郷に、文字を変えます。菅原道真は、一族の希望の星でありました。菅原道真は、天神様とか天神宮とか、九州に流された怨念で、京都に雷の嵐を落とした由縁で、雷の神となって、日置一族に祀られます。すばり、菅原神社というのもあります。・・・東松山に道真に関係する神社が異様に多いのは、以上の理由によるものと思われます。比企(日置)の郷は、従って、古代窯のあった周辺が想定されます。根拠は薄いのですが、現在の比企郡より範囲が狭く、東松山と鳩山を中心にして、隣接する村あたりまでかと想像します。歴史の資料を確かめた訳ではないが、鎌倉時代初期、頼朝の時代、比企能員と畠山重忠は同時代の人で、ともに頼朝の重臣でありました。出身の拠点は、今の比企家の東松山と畠山家の嵐山町で分かれますが、隣接地です。畠山家の嵐山の菅谷の館は、比企の郷などと到底思えません。
大谷・・・東松山市
日置の痕跡が残る大谷は、古代窒、大雷神社、古墳跡、天神社、そして後で説明する宗悟寺などが集積する地域です。火を使う古代窒があるので、火伏せの信仰もないかと探したら、近くに秋葉神社もありました。さすがに秋葉神社まで比企と関係あるとも思えませんが・・。この大谷は、武蔵丘陵森林公園の東側の真隣です。
狛犬は高麗犬とも謂われ、どうも日本古来の動物ではなさそうです。口を開けている方が「あ」で口を閉じている方が「うん」と言われ、相対は顔を向かい合わせ、「あ」が生誕を、「うん」が死去を顕して、その間が「生きる」という生命を表現している、という説があります。刀剣は神事に使うそうですが、みるとかなり錆びています。
比企一族が出現するのは、その後のことです。従って、比企一族が、比企の土地名をつけたのではありません。
上野佐野あたりを拠点とする藤原秀郷は、「平将門の乱」の残党を征伐しました。その褒美として、時の朝廷は、秀郷に、比企の郷の領地を与えました。秀郷は、子孫を比企の郷の派遣して領主にします。比企を領有した秀郷の子孫が、比企氏を名乗りました。
比企一族の当主である掃部允助宗の正式な名称は、名付けのルールに従えば、比企掃部允藤原朝臣助宗と言うことになる。この類型をもとめれば、 源義家(八幡太郎)の二男義国は下野国足利庄(栃木県足利市)にあって足利氏を称していましたが、義国の長男義重は足利庄を出て上野国新田庄を継ぎました。この義重の正式名称は、新田源朝臣義重です。新田の後に官名が入る場合もあります。分割相続した場合は、相続した土地名を冠につけます。この足利氏は、後に足利尊氏に繋がり、新田氏は新田義貞に繋がります。
これについては、異説があります。以下・・・
異説・・・1
比企一族
・・ 扇谷山宗悟寺、扇谷・・おうぎがやつ
この比企一族の館は、宗悟寺の東側の城ヶ谷(じょうがやつ)にあったといわれておりますが特定されていないそうです。資料も残されていない、伝承のようです。比企掃部允助宗は、伊豆に流された頼朝の平家側の監視人です。比丘尼は助宗の妻ですが、助宗が死んだ後、比丘尼を名乗り、頼朝の乳母となり、頼朝を育てました。結婚当初、比企尼は城ヶ谷の館で過ごした事があるのかものかも知れません。比企能員は養子なので、比企の郷とは関係ありません。
比企一族の伝承は、むしろ比企の乱以後の、生き延びて逃れた一族のことがほとんどです。比企の乱の経緯については、吾妻鏡などで顕かにされて、解説も多いのでそちらを参考下さい。比企の乱の時、鎌倉にある比企一族は、悉く北条時政の支持勢力に殺されてしまったというのが、定説ですが、この比企の郷には、わずかに逃れて残存したという説が、まことしやかに残されています。
宗悟寺
その一つ、源頼家の側女、若狭の局は比企の郷に逃れ来て、隠れ住んだと言います。残ったわずかの一族の係累が若狭を守り、沈静化の後再び、比企一族を名乗り、継承して存続したと言います。この伝承は、比企郡、東松山市大谷で当地は扇ヶ谷といい、宗悟寺(そうごじ)というお寺で、この寺は若狭が夫頼家の供養のために建立した寿昌寺を、天正年間に旗本森川氏が、この地に移して中興したそうです。また宗悟寺の北西にある比丘尼山(びくにやま)は比企尼や若狭が草庵を結んだところだという伝承があります。・・・比丘尼と若狭の件は、確認されておりません。
この地は、比企一族の居館のあった本拠地である可能性は高いが、若狭の隠棲の場所は作り話のように思えます。
*・宗悟寺、鎌倉時代は寿昌寺 場所;東松山市大谷400
金剛寺と正法寺
その二つ、比企の乱が起きた時、頼家の側女の若狭の局は身ごもっておりました。それも臨月近く。しかし、北条時政の兵に、若狭は殺されます。比企能員の家臣は、隙を待って、とっさに死んだ若狭の腹を割って遺子を取り出し、比企に逃げて正法寺観音堂の別当に預けます。この正法寺観音堂の別当は、川島町にある金剛寺です。腹を割って等、かなり生々しい逸話で、どうかと思いますが、殺される前に生み落としたのかも知れません。後に、なぜか敵側であるはずの北条政子が正法寺を庇護し、菩提寺にしたことが、縁起書の案内に記載されていることを思えば、こちらの話は、現実味を帯びてきます。この金剛寺には、比企一族の系譜があり、藤原秀郷の子孫の系図を示していると言われております。
金剛寺本堂、改築されたばかりのようです。新しい寺は、ありがたみが湧きません、失礼。
比企一族の墓・・・
寺門から、本堂を右に回り込み、竹藪の中にあります・・・
・・比企則員(1616没)・比企義久(1642没)・比企久員(1684没)・比企雅久(1701没)・比企重員(解読できず)、他にも累々一族の墓があります。
比企一族は、比企の乱で壊滅的になったが、ほんの一部は、前北条の時代は存在を隠し、室町時代になって、扇谷上杉に属し・・たぶん太田道灌などの軍に属し、のちも上杉家臣で残存して江戸時代も生き残り、現在も比企の名前を継承していると聞きます。前北条の時代の隠棲に、以前の拠点の大谷付近を選ばなかったのは、比企能員が、正法寺の中興に尽力した由縁で、追われた比企一族が、正法寺別当の金剛寺を頼ったことは納得出来ます。
しかし、比企の乱後の十六世紀までは、系図のみの証拠立てで、確認されておりません。
・・・場所;川島町。旧道の、白鳥の飛来地の越辺川入口とR254との中間ぐらいの位置。
金剛寺 場所;川島町中山1198
正法寺・・
正法寺 大銀杏
・・名刹、物見山下にあり、大東文化大となり。・・・懸崖仏で有名な巌殿観音ともよばれる。
その三つ、武蔵国の日置族の比丘尼の長女丹後局に子がありました。その子は、比企の乱で逃れて、薩摩に行きます。その子は、後に島津忠久と名乗り、薩摩の領主になりました。・・・これも説としては、存在しますが証拠とする資料は見つからないそうです。