ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

マロウドの話

2015-01-07 15:53:44 | 建造物

MaRRoaD


大宮駅の西口駅前に、「MaRRoaD Inn」というビジネスホテルがある。通常ビジネスホテルは、一泊¥5000円前後と覚えているが、ここはそれよりやや高い。高いから高級なのかどうかも、利用したことがないので余り分からない。


それより気になっていたのが「MaRRoaD](マロウド)の意味で、英語と仏語の辞書で調べたが、一向に出てこない。その時はそれで忘れてしまったが、このホテルは、大宮の他には、赤坂、軽井沢、八王子、成田(成田は、「MaRRoaD International Hotel」と少し名前が違う)にもあるらしい。それでも、字句から”外来語”であると思い込んでいた。

門客人神社


大宮氷川神社は、近いことにもよるが、度々散策で訪れることがある。この神社は、郷村一社の法律で、様々な神社が合祀されているようだ。
明治の法律による合祀の神社はさておき、もともとの氷川神社は、男体宮、女体宮、火王子宮、それと荒脛巾宮であることが江戸時代の境内古地図より見て取れる。男体宮は氷川男体神社、女体宮は氷川女体神社、火王子宮は中氷川神社、荒脛巾宮は門客人神社と比定できる。この四つの神社の他は、江戸時代以前には、氷川神社の境内には存在しないのだ。

ある日、突然気がついた・・・
「マロウド」とは客人のことなのだ。ホテルの名前としても意味が通じる。じつは、氷川神社の「門客人神社」は”・かど・まろうど・神社”と読む。とあるブログでは、ご丁寧にも「モンキャクジンジンジャ」とルビが振ってあるが、正しくは「かど・まろうど・神社」と読むのだ。

アラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛巾)


『東日流外三郡誌』において、「アラハバキ」は荒覇吐、荒吐、等とも書かれる。その中では、縄文の遮光器土偶の絵が示されている。東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)は、古史古伝の一つで偽書として名高いが、”アラハバキ”が何者かの一つを示しているのは確かだ。荒脛巾神を祀る神社は関東を中心に全国に約150で、その中には客人神(門客神)として祀られている例もある。それが大宮の氷川神社の例である。

荒脛巾(アラハバキ)神とは、一体何か?


この疑問に、いくつかの推論がなされている。
○蝦夷の神説・「まつろわぬ民」であった日本東部の民・蝦夷(えみしなど)がヤマト王権・朝廷により東北地方へと追いやられながらも守り続けた伝承とする説は、谷川建一が主張する。・・・「客人(まれびと)の神だったのが元の地主神との関係が主客転倒したもの」という。
○吉野裕子によれば・・・蛇神説が関係するという。「ハバキ」の「ハハ」は蛇の古語であり、「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるいは「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、蛇や竜は水神に関わり、古来祭りの中枢にあったという。さらに・・・伊勢神宮には「波波木神」が祀られている。内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は「巳の刻」に行われる。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」、蛇と深い関わり、「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木神」になり、アレが荒に変化してハハキが取れたものが荒神だという。
○あるいは伝承で、「荒脛巾神」、脛に佩く「脛巾」の神・・、神像に草で編んだ脛巾が取り付けられる信仰があり、・・・多賀城市の荒脛巾神社で祀られる「おきゃくさん」は足の神、だという。・・・塞の神説・多賀城跡の東北に荒脛巾神社・・多賀城・・蝦夷を制圧するために築いた拠点・・谷川健一は・・外敵から多賀城を守るために荒脛巾神を祀った・・外敵とは当然蝦夷・・さらに谷川は、・・「蝦夷をもって蝦夷を制す」・・もともと蝦夷の神、と解釈する。
○近江雅和は門客人神はアラハバキから変容したもの・・その門客人神の像は片目に造形・・片目は製鉄神の特徴・・「アラ」は鉄の古語・・山砂鉄による製鉄や、その他の鉱物を採取していた修験道の山伏らが荒脛巾神の信仰を取り入れた・・足を守るための「脛巾」を山伏が神聖視・・荒脛巾神が「お参りすると足が良くなる」という「足神」様に変容した、とする。

荒波々幾社(アラハバキ・荒脛巾)、何故か一番大きい?江戸時代-「氷川神社境内古地図」

何れが正しいのか、凡庸の脳からは正しい答えなど導き出せるわけはないのだが、言えることは、江戸時代以前には、「門客人神社」という言葉は無かったのだと言うこと。
そう考えると、意味不明な「荒脛巾神(=アラハバキ)」が先にあって、それを読み解く知識人が「門客人神社(カドマロウド)」と解釈命名したと理解するのが一番妥当なように思う。
その場合、”荒”は・・・乱暴な、荒々しい、日本古語では、”鉄”のことを意味し、はばき ・・・憚る・・恐れ慎むことで、脚絆を身につけた”旅人”であり、姿形は縄文土器に形が僅かに残る”遮光器土偶”のモデルと見ることが可能だ。そしてこの旅人は、弥生文化の知識を広めた渡来人・・・・・そのように読み解いた江戸時代の知識人は、かど客人神と呼んだのではなかろうか。 ・・・この場合の”かど”は”門”ではなく”角”の意味であり、かど・・・気が強く、心が角だっていて才気がある・・・(三省堂古語辞典)・・・荒と同義語、ではなかったか。・・・この「荒脛巾神」を「かど客人神」と書き換えをを行った人物は、古く物部氏を遠祖に持つ武蔵一宮の宮司・岩井氏(祝氏)、西角井氏、東角井氏の一族のいずれか、あるいは合議であると推測出来るが、確証はない。「かど門人神社」の”かど”を角と読むと、東西の角井家の冠の”角”と繋がってくるが、それも憶測にすぎないのかも知れない。

荒脛巾神は氷川神社の地主神で先住の神とする谷川健一説だと先住が客人になってしまう前後逆さの矛盾が生じてしまい、どうも納得がいかない。つまり先住民が客人になる訳がない。弥生文化の伝搬に渡来人が関わっているまでは異論のない話であり、鉄の製法と弥生文化の農耕の伝搬は、ほぼ同時に行われただろうことも、疑問を挟む余地の少ない部分であろう。

弥生文化は鉄の製法を伴って急速に拡大したとされる。そして、大宮氷川神社が、その「産鉄の遺構を持つとする論文」をネット上でよく見かけるが、その痕跡はいまだに発見されていない。氷川神社境内の”東遺跡”(野球場前)から発掘されているのは土器と柵を作ったであろう溝の跡ばかり。当時の状況からは産鉄部族が近辺に居住したのは確かだろうが、砂鉄やたたらの痕跡は全く見つかっていない。伊奈町の”大山遺跡”を氷川神社の関連施設と見るのは、かなり無理がある発想で、そうすると、氷川神社は産鉄遺構を有するという、やや定説らしき説は否定されるべきではなかろうか。

長い年月を経て、渡来人が大和民族と婚姻を繰り返しながら同化していったとするならば、「荒脛巾神社」を敬う信仰も薄れていっただろうし、当初は、渡来人の文化に尊敬し、姿形に驚き、その知識や技術に畏敬の念を抱いて”神”としたのも頷ける。荒脛巾の装束の伝承は、山法師の姿に残ると見るのも、あながち外れてはいないと思うのだが・・・・


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