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ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

長島家の”稲荷神社”

2017-12-24 02:10:01 | 神社・仏閣

長島家の”稲荷神社”

この神社の由緒には、


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・「伊勢・長島の一向一揆」で織田軍に攻め落とされた長島家と郎党の三家が落ちた先・ここで、絆で創建した神社だそうである。

・信長の伊勢・長島の一向一揆だから、1566年のこと。逃避行は、はじめ「足利」後「岩槻・慈恩寺」、そして領内の当地に帰農したようである。
・神社の主祭神は「倉稲魂命」とあり、稲荷社である。つまるところ、「稲」の精霊であり、伊勢神宮と通じるところ・
・長島家は、この地の「世襲名主」になり、「大長島」と呼ばれた。
・江戸期には、この神社は「郷社」となり郷村の氏子を抱えた(明治期は村社)。
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名は、「稲荷神社」または、地名をとり「新堤神社」という。
    --- さいたま市見沼区大字新堤109
    

    

大長島・分家、  ---長島家

たまたま、そこのご主人が農作業していた。
少し、立ち話をして下さった。

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 ・本家筋の「大長島」は、没落して、今は痕跡を残していない。
 ・かつては、少し高台に大屋敷があり掘割もあったが、今は住宅に変わっている。
 ・長島家及び郎党・松本家、柳沢家は伊勢・長島が出自であるが、信長に追われた。
 ・伊勢・長島家は織田に反目したが、特に浄土真宗の宗派とは聞いていない。
 ・織田から隠れたとき、岩槻・慈恩寺の僧侶となって過ごしたようだ。
 ・家系図はあるは、「源氏流」である。
 ・伊勢及び一向宗との繋がりを示す資料は、寺に預けたが、消失したか、残っていない。
 ・などなど・・
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深堀出来れば、面白そうだが無理かもしれない、と思った。


◇たわごと・・など

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長島はどこ?のこと
・木曽・長良・揖斐の三川に囲まれたデルタ地帯にある長島。
・桑名の地籍。尾張のとなり・。願証寺という本願寺系のお寺があり。

「長島一向一揆」で気が付いたこと・
・それまでは、信長の一向一揆に対しては、その残虐性ばかりの印象でした。

ですが・
・弟・織田信与が先に一向一揆側に自害に追い込まれたこと。
・信長が先に攻めたわけでないこと(一向一揆側が先制して織田軍を攻撃した)。
・信長は、この弟・>織田 信与(=信與とも)を信頼していた。--・ので憎悪が増幅・
・あの虐殺に至るには、「前振り」で憎悪が高まっていたという経緯があったのですね。

「長島・一向一揆」への信長の3回にわたる侵攻で、
・一次、二次とも一向一揆側が優勢だったんですね!
・三次は、信長側の残虐性が強調されているのですが、信長側の被害もすさまじいものだったのですね!

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コメント
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