毛呂神社あり。
--- ・毛呂神社が記憶に残ったのは、先輩のブログからです。
神社前に、無人の野菜直売所があり、とにかく安いので記憶に残った。機会があればと、思っていた折、例年の「岩殿観音の大銀杏」の落葉の季節になり、足を延ばして見たわけである。
地籍:鳩山町熊井1742。・---
さて、毛呂神社なのだが・--
類例の名前の神社の覚えがあまりない。
田畑の農村風景の中の三差路の野菜直売所の向かいに、蹴上がり山林があり、鳥居の奥に参詣道が通じていた。
上ること約1Km、・・勾配がきついので息が切れるが、先に神社・社格が現れる。社格の脇が駐車場なのを見ると、どうやら鳥居を潜って、車でも上ることが出来そうである。社格の年代は、やや新しそうであり、舞台がある。このぐらいの規模の小さな神社で、能の舞台は珍しい、と思いきや、これも余り類を見ない「お囃子」の舞台のようである。
創建など詳しからず。
伝聞によれば、毛呂・臥龍山の出雲伊波比神社を勧請したとされる。別当は、西にすこし行ったところの西福寺らしい。西福寺の記録には、この神社は江戸時代2度の火災により建物・古文書は焼失、とあり、社格が新しいのは再建の故であろう。明治維新に近在の神社を併合したとあるので、熊井の村社でもあろう。
・--- ここの、かなりの部分は推測である。
神社の創建の歴史は、中世に関わる事例がかなり多い。毛呂神社の勧請元となった「出雲伊波比神社」は、平安期にこの地の統治に派遣された藤原流の傍流の家系で毛呂氏を名乗り、一族の護り氏神として神社を創建した。傍流としたのは、正流ならば春日神社だろうという、基準からであるが、。毛呂氏は、鎌倉期に「毛呂郷」一帯の地頭を務めた豪族で、頼朝の「御家人」であったことが古書の記載で確認できる。
鎌倉道の保安・
苦林、今宿、笛吹峠、大蔵、菅谷は、鎌倉上道のルートであったという。熊井は、今宿と笛吹峠の間・--
この点線の部分は、どうやら確定のルートではなく、推定のルートのようで、歴史的な証左が少ない部分のようで、大きくズレてはいないが、小さくズレている可能性がある。苦林から今宿を通て笛吹峠までの間の比定が不安定のようです。
鎌倉時代、街道の保安は、御家人の大きな任務であったようです。大蔵と菅谷は、有名な畠山重忠が、鎌倉上道を管理したようですが、その手前の毛呂郷は毛呂一族の領地だったようで、当然毛呂郷を通過する鎌倉道の保全は毛呂氏の任務と考えられます。記録の残る古書の類が散逸しているとすれば、他の毛呂氏の文化・遺物を見つけ出して、推測する以外ありません。
八坂神社・考
仏閣は、汎用性が広すぎて証左するには向きませんが、神社は、一族の性格を表す場合があります。例えば、源氏は、鉄産族に関わる「戦いの神様」の八幡神社を守り神にしている例が多いと聞きます。藤原氏の場合は、「素戔嗚尊(=スサノウ)」を祭神にしている八坂神社です。素戔嗚尊(=スサノウ)はイザナミが別名とも、牛頭天王が別名とも言われています。これで、今宿の八坂神社と毛呂の出雲伊波比神社、八坂神社と熊井の毛呂神社は繋がりました。今宿や熊井辺りまで、毛呂一族の支配下の可能性が高いということです。
毛呂神社は、毛呂本郷の毛呂氏の拠点(今は長栄寺)から約8Kmです。
八坂神社は、祇園の護りの牛頭に関係があり、また仏教の祇園に関係が深いとされていて・・
「---・ 祇園商社の鐘の声 ・---」お囃子は、そんなのと関係があるのか、あるいは、・・と、後半は憶測を交えています。
もちろん、本来の目的の、 ・・・ 無人「野菜直売所」で野菜も手に入れました。
・白菜 ¥120 ・大根 ¥100 ・里芋 ¥100 なり
---・近くのスーパーで、白菜1/4 ¥130を見ましたので、1玉¥500ぐらいか!大根は1本¥150 里芋はよくわかりませんが、直売所の野菜は安かったのではないかと ・---
参考文献・
--- ・比企郡鳩山町熊井(平凡社日本歴史地名大系『埼玉県の地名』591頁)
越辺川支流鳩川の流域に位置し、--- (江戸時代)田園簿によれば田高401石余・畑高239石余で幕府領。
元禄郷帳では高663石余。国立資料館元禄郷帳では旗本内藤領。他に万願寺領がある。
「風土記稿」成立時には旗本三家と幕府領の相給。文化文政期の家数80。
天明年間創業と伝える熊井焼は幕末から明治にかけて盛んとなり、徳利・土瓶・灯火器・壺などの日用品を中心に生産された。明治期には土管・瓦生産に移行し、昭和30年代まで続けられた。(---・これが地場産業か?)また同じく「郡村誌」に特産物として木炭3850俵がみえ、近隣への木炭供給地であった。
鎮守は黒石明神社、産土神は毛呂明神社。ほかに慶安2年(1649)朱印地高7石を与えられた山王社などを祀る。
西福寺(真言宗智山派)は山王社の別当で、開山の尭栄は慶長年間(1596~1615)に没したという。
(西福寺)地内を古鎌倉街が道通る(この部分のみ角川日本地名大辞典11埼玉県338頁)。
---郷士熊井太郎が---熊井城址と称される館跡(年代不詳)があり、土塁の一部が残る。
また領主であった内藤氏が延宝7年(1679)に築いた陣屋跡があった。-----