ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

養寿院と川越館のこと

2015-07-25 19:14:20 | 史跡

養寿院と川越館のこと

川越の”藏通り”から脇に少し入ると菓子屋横町がある。ここの菓子は基本駄菓子で、ある時、あまりの長さに見初めて、”ふ菓子”なる物を買った。聞けば日本一の長さだという。味は、期待していなかったが、案の定そんなにうまいものではなかった。その菓子屋横町が、先月6月26日に火事になった。地元では”てんやわんや”の大騒ぎ。川越観光の目玉地区のひとつだから界隈の商店は、こぞって心配したらしい。今では落ち着いて、商店も商売を再開しているという。

話は、菓子屋横町のことではなく、菓子屋横町に隣接している”養寿院”という寺のことである。
「養寿院は曹洞宗に属し、寛元元年(1243)、秩父平氏の末裔河越次郎経重公(遠江守)が開基となり、大阿闍梨阿圓慶法師が開いた古刹である。」と由来に記されている。


山門の脇に、大きな石碑が建っていて、「不許葷酒入山門」と文字が彫ってある。読みは・「くんしゅさんもんにいるをゆるさず」、意味は・「臭いが強い野菜(=葱、韮、大蒜など)は他人を苦しめると共に自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これらを口にした者は清浄な寺内に立ち入ることを許さない」と言うことらしい。
寺院の境内は、いたって静寂で、菓子屋横町や藏通りの喧噪が噓のようである。

ここで注目したいのは、河越径重のこと。桓武流平氏の、平良文の末裔がこの寺を創ったのだと言うこと。その経緯を辿ってみると、・・
「河越氏は源頼朝が挙兵した当時、敵対していたが、重頼の妻が頼朝の乳母・比企禅尼の娘であったこともあり、後に頼朝方について平氏を追討、鎌倉幕府の樹立に力を尽くした。重頼の娘は、義経の正妻に選ばれ上洛するが、頼朝・義経が不和になると、重頼は誅殺され、所領は没収された。」とある。比企尼と河越氏の関係も興味深いが、源義経の正妻が、河越重の娘(=郷御前)であったことは知らないことであった。つまり、義経の奥さんは、”静御前”であり、”静御前”だけであると思い込んでいた。”無知”の”無恥”である。こういうのを浅薄な知識と言うのだろう。
それにしても、義経の外戚として、権力の頂点に手が届きそうになりながら、義経追放と比企の乱での比企氏滅亡の二つの憂き目は、政変に翻弄された河越氏の、天国から地獄へ転落であった。
「養寿院は、鎌倉時代(寛元2年/1244)に河越太朗重頼のひ孫、経重が開基し、大阿闍梨円慶法師が開山した。」
 ・・・養寿院:埼玉県川越市元町2-11-1 TEL:0492-22-0846

河越館:かわごえかん/かわごえやかた
「河越館は、埼玉県川越市上戸に所在した日本の城。川越市北西部、入間川右岸に位置し、約二町四方の占地規模を持つ館跡遺跡。」とあります。


河越館は、中世の豪族・河越氏の拠点の居館。場所の川越市上戸は、東武東上線・霞ヶ関駅を、入間川下流に向かう方向で、入間川と小畦川の狭地にあります。下流に向かって、入間川左岸、小畦川右岸に当たります。あれ!案内文と違うみたいですが、川の左右は川下に向かってが正しいはずですが、???。
ここの”河越館”周辺は、現在「河越館跡史跡公園」となっています。

せっかくですから、河越氏の”栄枯盛衰”の足跡を辿ってみます。
「河越氏は、平安時代末期に河越荘の開発領主として勢力を伸ばし、自領を後白河上皇に寄進し、その荘官となった。河越氏は、川越市上戸に館を構え、河越氏を名乗ったことに始まるとされています。12世紀中頃に、京都の新日吉社に河越荘を寄進し、代々その荘官として勢力を振るいました。
河越重頼のとき源頼朝に重用され、その娘(郷御前)が源義経の正妻となったが、義経没落の際に縁坐して重頼は誅殺された。
しかしその後も河越氏は武蔵国における在庁筆頭格として鎌倉幕府有力御家人の地位にあり、義経に連座して河越氏から剥奪されていた武蔵国留守所総検校職は重頼の三男・重員に再任され、河越館は河越氏の居館としてだけではなく、幕府の武蔵国政庁として機能した。室町時代に至るまで、栄華を誇った河越氏であったが、河越氏は、応安元年(1368)武蔵平一揆以降没落し、一揆の大将河越直重も伊勢国に敗走して河越館に関する記録も歴史の表舞台から消えていった。
戦国時代初頭の長享の乱の際に関東管領上杉顕定が河越城を攻撃するために7年にわたってこの地に陣を構えた、と記録に残ります。
それより前 ・・・河越氏の祖である秩父重隆は、秩父氏家督である総検校職を継承するが、兄・重弘の子で甥である畠山重能と家督を巡って対立し、近隣の新田氏、藤姓足利氏と抗争を繰り返していたことから、東国に下向した河内源氏の源義賢に娘を嫁がせて大蔵の館に「養君(やしないぎみ)」として迎え、周囲の勢力と対抗する。久寿二年(1155)8月16日、大蔵合戦で源義朝・義平親子と結んだ畠山重能らによって重隆・義賢が討たれると、秩父平氏の本拠であった大蔵は家督を争う畠山氏に奪われる事となり、重隆の嫡男・能隆と孫の重頼は新天地の葛貫(現埼玉県入間郡毛呂山町葛貫)や河越(川越市上戸)に移り、河越館を拠点として河越氏を名乗るようになる。本拠大蔵は奪われたものの、総検校職は重頼に継承された。」

参考:源義賢のこと・・旭将軍・木曾義仲の父
埼玉県比企郡嵐山町大蔵には大蔵館跡がある。都幾川に沿った段丘上で、川をへだてて水田が開け、現荒川の沖積平野に続いていて鎌倉街道の要路にあたっている。近くには源義賢の墓と伝えられている県内最古の五輪塔がある。木曾義仲は、大蔵の地に生まれた。
源義賢とは?源義賢は源為義の次子で近衛天皇が皇太子の時に仕え、帯刀の長となったので、帯刀先生(たてわきせんじょう)と称し、その後東国に下り、上野国多胡館を本拠地としていましたが、更にその後にここ大蔵館に移住してきた。久寿二年(1155)に大蔵館で義朝の長子である甥の悪源太義平と争い討たれた。この騒動は大蔵合戦と呼ばれている。ここにある源義賢と伝えられる墓は一説には尼御前(源義賢の妻)の墓とも伝えられる。
*帯刀先生とは、天子とか皇太子の、今で言う護衛官のこと。律令制度の官名ですが、制度発令時代は任務の実態があったが、後に形骸化して官名のみが残り、官名は詐称された。