ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

村岡のこと  ・・坂東平氏の源流

2015-07-20 03:07:07 | 街 探求!

村岡のこと  ・・坂東平氏の源流
                                                ・・・ 熊谷市村岡。

[高雲寺・墓地・円古墳?]

村岡古墳群はR407の東松山と熊谷の界当たり、村岡三叉路(交差点)近くの高雲寺の周辺に分布とあり、寺の墓地に小高い塚が一つあるが、孤高で群れていない。この古墳は円墳らしき?があるが、近くに豪族が住んでいたのか・?古墳自体はその一基を残して、他は崩されて、田園に変わっている・?

[村岡付近の高雲寺]

「平良文 仁和二年(886)3月18日に京で生まれた。良文は武蔵国大里郡村岡郷(熊谷市村岡)を本拠とし、村岡五郎を称した」という伝承が残る。しかし、その場所は比定できない・・・・・

今昔物語の説話・
『今昔物語集』には源宛(箕田宛)と(平良文)の一騎討ちの説話が収められている。これによると源宛との一騎打ちは以下のようなものであった。
今は昔、東国に源宛・平良文という二人の武士がおり、二人の領地は荒川を隔てて近いところにあってたびたび家来たちが小競り合いをしていた。そのうちに家来同士ではなく二人で一騎打ちをしようという話になり、お互い家来を引き連れて荒川の河原に乗り込み、家来には手出しをしないように命じて前へ進み出た。はじめに源宛は平良文の放った矢を軽くかわし、次々と射られる矢を刀で打ち落した。平良文も負けじと源宛が放った矢を軽くかわして次々射られる矢を刀で打ち落し、二人のすばらしい業に敵味方関係なく喝采が送られた。二人は一歩も譲らず、戦いが終わると互いに駆け寄って健闘をたたえあい、今後は助け合って地方の開発に尽くすと誓い合ったという。

[箕田古墳群の中]

ここに出てくる荒川は、今の元荒川だろうし、それも乱流を繰り返し、洪水の毎に水路を変えたという伝承が残っている。二人の戦いの場所は何処なのだろうか?
源任のことを訊ねると、箕田任のことだという。読み方は、多少ややこしくて、箕田・みた・任・つこう・と読むのだそうだ。そして、鴻巣の箕田に、箕田館という武家屋敷があったと古文書にのこる。
この箕田屋敷の箕田氏は三代続き、二代目は源宛(あつる)、三代目は渡辺綱(つな)で、渡辺綱のとき京へ上り、源頼光の家臣になり、頼光四天王の筆頭と言われた。有名なのは「羅生門」の鬼退治の話である。『今昔物語集』の「羅生門」は謡曲にもなり、芥川龍ノ介の小説にもなった。

[鴻巣・氷川神社]

鴻巣の箕田屋敷は、北鴻巣の氷川神社(鴻巣市箕田)であったと言われている。そうすると、川を隔てた元荒川の河原は、鴻巣の「免許センター」裏手の河原ではないかと、勝手に想像する。全く根拠がない当てづっぽうだが、何故かそう思えてならない。鴻巣の「免許センター」の裏手は、昔知人の葬儀があり、火葬場があった。周囲は人家の疎らな田園で、確か行田の古墳群の郷まで、延々と続いていたように思う。その風景の記憶は、古戦場をつい想起させるのだ。だが、”良文”と”任”の戦いは、なんとも長閑な感じである。

ここで、武蔵野を発祥とする「桓武平氏の源流」に再び戻る。
延長元年(923)、三十六歳の平良文は、醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅令を受けて東国に下向し、盗賊を滅ぼしたと伝わる。その後東国のどこかに定住して京に戻ることはなかった。
東国に来た”平良文”は村岡五郎と名乗った。
村岡五郎が住んだと言われた場所は、いつの間にか、「村岡」という地名になった。
その場所は、・
 ・武蔵国熊谷郷村岡(現・埼玉県熊谷市村岡)、
 ・相模国鎌倉郡村岡(現・神奈川県藤沢市村岡地区)、
 ・下総国結城郡村岡(現・茨城県下妻市)、
住んで居館はあったが地名にならなかった場所が
 ・千葉県東庄町、
 ・千葉県小見川町、
である。
歴史を辿ると、上記は時系列になっており、数少ない逸話の中で、それでも多い方が熊谷の村岡であるから、熊谷の村岡に住んだから”村岡五郎”を名乗ったのかも知れない。それから後の村岡は、平良文がすんだので、村岡と呼ばれるようになったのかも知れない。いずれにしても証拠がない話なので、定かではない。
こうして見てくると、”村岡五郎”の役割と行動範囲と人となりが浮かび上がってくる。まず役割だが、村岡五郎は、朝廷から派遣された、武蔵国及び周辺国の”鎮撫の長官”つまり警察機能と見ていいだろう。周辺国とは、相模国と下総国までが範囲であるが、”下総国結城郡村岡”には違和感が残るのは、中世の地名に馴染みがないからか。結城の現在の地籍は茨城県に属し、常陸国ではないのか。常陸国と上総国は別人がその任に当たっていた。説話に残る、村岡五郎の人柄はおしなべて公平な好男児である。”賊”というのは、恐らく税金を拒否して、富と武力を私的に貯えた地方豪族を指すのだろう。
当時の鎮撫(警察機構)は、現代の警察機構と違って、網の目のように網羅されていたわけではない。浮かび上がってくるのは、交通の要所で、受け持ちの範囲の中央に位置していたのではないかと言うことである。鎌倉古道を確認すると東山道武蔵野道と重複しているみたいである。確認された古道は、吉見町の西条里遺跡、とうかん山古墳を通っているようである。やはりこの辺りを分岐して上野国と信濃国への道に分かれる。別名は古道上道と呼ばれていたようだが、坂戸や日高のように、古道の痕跡ははっきりとは残っているわけではない。
村岡五郎は、各地に反逆する”賊”を成敗に出かけるが、その痕跡が各地に居館が残っている所を見ると、その戦いは数ヶ月から数年に及んだと読むことが出来そうだ。それも、次々と征伐に出かけざるを得ない暮らしが続いていたようだ。戦いの兵力も、手持ちの家来だけでは足りず、現地の協力的な豪族の手も借りたと思われる。
ここからの部分は私見ですが、現地豪族と派遣政府高官(賊成敗の朝廷の武官)の関係の考察ですが、現地豪族は、政府高官に対して、思惑があり、供応したと思われる。それは、朝廷から派遣される武官は、おしなべて名族であり、あわよくばその名族の一員に列することは末代までの地位の保全になる。その為、豪族の子女を‘現地妻’として応対させ、彼女が男児でも産めば、彼の豪族の思惑の願いが叶い、名族に一員になると言う筋書きが完成する。平安時代の婚姻の制度は”通い婚”であり、道徳的にも違和感がない。こうして桓武平氏は、武蔵野の地で増殖を重ねていきます。
賊を追放し、あるいは戦死させた領土は、領主不在になり、増殖した桓武平氏の手に委ねられます。
このメカニズムは、平氏に限らず、源氏も同じで、地方に「賊を征伐する」為に派遣された源氏も、各地で増殖をしていたことが実証されています。南関東の坂東九平氏、北関東・信濃の源氏庶流は、このメカニズムによって生み出された庶流と見ることが出来る。

ここで系譜のおさらい ・・
平良文の父は平高望。高望の子は四人確認されている。正室の子は平国香、平良兼、平良将、側室の子は良文。父の平高望が東国に下向した際には、平国香、平良兼、平良将は従ったが、良文は幼年のため従わなかった。後、延長元年(923)、三十六歳の良文は醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅令を受けて東国に下向し、盗賊を滅ぼしたと伝わる。
父:平高望亡き後、正室の子、平国香、平良兼、平良将の三人は常陸国に居着いた。遅れて東国に来た良文は武蔵国に村岡に居館を構えた。朝廷からの任務は、同じだったと考えられる。「将門記」の平将門は平良将の子。将門と良文は伯父、甥の関係。将門が戦った、平国香とも伯父、甥の関係。「将門の乱」の時、平良文は、将門に味方したと伝わる。
平良文には五人の子がおり、長男の忠輔は早世、春姫(平将門の娘)を正室とした三男・平忠頼からは千葉氏、上総氏、秩父氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏などが、五男・平忠光からは梶原氏、長江氏、鎌倉氏などが出て、さらにこれらの氏族から多くの氏族が分かれて「良文流平氏」を形成した。畠山重忠の畠山氏族は、秩父氏から派生したと言われる。
後に、源頼朝による源平合戦に従軍して鎌倉幕府の創立に協力し、鎌倉幕府で有力な御家人になった者の多くがこの良文流平氏に属する。
なお、平良文流・鎌倉氏が伊勢に流れて伊勢平氏を名乗り、伊勢平氏が朝廷に文官として仕えて勢力を拡大し、京都に権勢を誇った平氏が生まれた、と言う説があるが、良文流であるかどうか詳らかではない。
いずれにしても、謎に包まれた”平良文(=村岡五郎)の霧は、少しだけ晴れて輪郭が見えてきたように思う。

[千葉神社]・千葉一族の氏神・千葉氏の嫡流の元服が行われた。

妙見菩薩と良文
平将門が叔父の平国香と争うと、良文は将門に味方して染谷川で戦いを繰り広げた。この戦いで将門・良文の軍勢は苦戦し七騎のみとなり、良文は自害する場を求めてさまよっていた。そこに突然不思議な声が聞こえ、その声に誘われるままに後をついていくと寺院が現れた。その寺院の寺僧によるとここは妙見寺という北斗七星の化身・妙見菩を祀る寺院であり、良文が妙見菩薩に選ばれた者であるといい、七星剣を渡された。また寺僧の言葉の通り、その証拠として良文の体には月と星の印が浮き出ていた。この出来事以降、妙見菩薩の加護を受けた良文・将門軍は勝利を重ねて坂東八カ国を討ち据えたが、良文はこの乱中に、北を目指して陸奥守、鎮守府将軍として陸奥国胆沢に赴任していった。


 ・・・この逸話は、当時の情勢や逆賊とされた”将門”に味方した良文を、朝廷は鎮守府将軍とするだろうか、それも戦いの最中に・・という合理性に欠ける所がある。平良文の孫が千葉に住み、千葉氏を名乗った、ことは確か。千葉県や千葉市の名前の由来でもある。その千葉氏が信仰する「妙見信仰」のことを書いた古文書が残されていて、その内容である。平良文は、晩年を千葉・小見川に住み没したとされている。

 

[小見川の平良文館]