ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

勝呂廃寺跡と古代寺院の時代

2015-07-08 13:13:38 | 史跡

勝呂廃寺跡と古代寺院の時代 ・・・

改訂:7/10

廃寺は、仏教関連用語の一つ。「廃止された仏教寺院」を指します。
勝呂廃寺も、仏教が伝来して間もない頃・飛鳥時代に建立されて、いつの日か姿を消した幻の廃寺・・・・・ある時、瓦が大量に発見されたのを端緒に確認されました。

勝呂廃寺 ・・・

「勝呂廃寺は、坂戸の石井の舌状台地北端部には将軍山・御殿山など意味ありげな地名がみられ、勝呂廃寺はその付近にる。建立が飛鳥時代(600年代後半)と言うことは比定されているが、廃寺になった年代や理由は謎のまま。勝呂廃寺が建立された時期は、とにかく仏教が伝来してから初期の頃というのは疑いのない事実のようだ。
地名が暗示するのは、なにやら武力を持った裕福な豪族が、この付近に住居を構え、寺院を管理していたのではないか、とみられる。その豪族が中世にこの地で名を残した勝呂氏であるかどうか、可能性はあるが定かではない。」
・勝呂館:坂戸市石井勝呂町/略歴:勝呂氏は武蔵七党の村山党の一族。
-・鎌倉御家人勝呂氏は、村山党の山口兵衛尉家恒の子須黒(=勝呂)太郎恒高を初代とし、須黒(=勝呂)左衛門頼高、左衛門尉行直と続く。・・行直の子供達である須黒(=勝呂)兵衛太郎、兵衛次郎らは承久の乱(1221)において、宇治橋合戦で活躍している。-・この地にはその頃勝呂氏の何れかの者の館があったと伝わる。

この仏教伝来から初期の頃の、各地につくられて廃寺になった寺は、どのような目的があり、どのような影響をもたらしたか、気になる所です。
初期の寺院の歴史を簡単に辿ると、・・・
 ・587:法興寺(飛鳥寺)建立
 ・607:法隆寺建立
 ・574-622:聖徳太子:生没
 ・551?-626:蘇我馬子:生没
 ・644:善光寺建立
 ・774-835:空海:生没
 ・
 
日本の仏教伝来期の背景は・・

*日本最古の本格的寺院は法興寺(仏法が興隆する寺の意)といわれる。法興寺は後に飛鳥寺と呼ばれrっようになった。おそらく奈良の明日香村にある寺院だからだろう。蘇我氏の氏寺であり、仏教伝来の原初の寺で、仏教派の拠点だったともいわれ、仏教導入時の渡来人の巣窟でもあったようだ。やがて在来の土着文化の神社派の物部氏と対立するようになる。
*法隆寺は聖徳太子の建立と言われる。聖徳太子は進取の気運が高く、大陸・随の文化の取得に勤めて翻訳し位階制度や法律などをつくる。随の文献に精通していた所を見ると大陸からの渡来人の一族の可能性は極めてたかい。・・・仏教の初期の拡大期には、官(朝廷)主導で各地に寺院が作られた。仏教の経文は漢文であり、漢文を読み書きできる知識人が各地の寺院に派遣された。大陸からの文明がもたらされて間もない頃、倭人がただちに漢文を習得して読み書きが出来るようになったとは到底思えないので、各地に派遣された仏教の伝道師や国司や郡司たちは、多くは渡来人だったのであろうと想像する。当然全国に覇権を握ろうとする朝廷の意は汲んでいただろう。その勢力の頂点にいたのが聖徳太子であったと読むのは、深読みだろうか。
・・蘇我氏と聖徳太子(厩戸皇子)は同盟して物部氏と反目・戦いに至る・・600年前後。
この勢力争いは、仏教派と神社派の宗教争いの側面もあった。しかして、仏教派の蘇我馬子・聖徳太子連合が勝利し、次の局面に入る。
*勝利した仏教派・馬子&聖徳太子連合は、全国各地に仏教普及のため寺院の建立を企てる。時は飛鳥時代の中頃からであった。この頃建てられて現存する有名な寺は長野・善光寺である。善光寺は、仏教普及の先駆け。善光寺はインドで作ったとされる日本最古の仏像を有しているので、日本最古の寺として崇められた。飛鳥時代に建てられた日本の初期の寺は、建築様式に同一性が見られる。日本最古の寺とされる”飛鳥寺”とほぼ同じなのである。そして多くが、現在では廃寺となっている。これらの寺の建立の目的を再確認すると、仏教の全国普及展開と渡来文化の伝搬、全国への覇権確立であった。


・・勝呂廃寺もこの頃上記の目的で建立されたものと思われる。

*この頃の地方の住居様式は、弥生時代からの様式がまだ残り、基本的には竪穴住居、屋根は「萱」などの草を屋根に敷き詰めたものだったと想像できる。この為、大陸の建築様式の瓦葺きの屋根を持った寺院の異様/偉容は、畏敬の念の衝撃をもって各地に伝えられたと想像できる。布教に役だったかどうかは不明だが、渡来文化の伝搬と覇権確立には貢献したと思って良い。

こうして、瓦の重要性が特筆でき、良質の粘土と燃料と技術のある所で”瓦”が生産された。勝呂廃寺の瓦は、鳩山町の赤沼窒で生産されたと言われている。直線距離で2Km以内か・・鳩山町・農村公園内。
なお、勝呂廃寺などの初期の仏閣も大陸文化なら、瓦職人の渡来人が主であった。

坂戸ではないが、この付近で”将軍”と名がつく遺跡を時々見かける。前から気になっていたのだが、いつの時代の、何という”将軍”なのだろうか、と。

*例えば、野本将軍塚古墳 ・・・東松山市下野本612

 --前方後円墳なので、弥生時代後期か大和王朝・古墳時代なのであろうか。・・稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)の辛亥年(471年)の紀年銘となっている所から類推すると、500年前後か。そうすると”将軍”は、『日本書紀』崇神天皇紀に見える四道将軍の一人・ 武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)が見えてくる。ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解があるが、その平定ルートは、四世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なる。・・”武渟川別”は、大彦命の子。阿倍朝臣等の祖と伝えられる。さらに”武渟川別”は、東海道平定の際比企地方に来訪したと言われる。また『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命(=武渟川別・同一人か)が合流した場所が会津であるとされている・・会津の地名由来説話。”武渟川別”は、晩年比企に再訪し、比企に定住して没したという伝承も残る。いずれも「古事記」「日本書紀」の内容だが、将軍塚古墳が現存しているので「作り話」としてしまうことができない。
・・・行田の古墳公園には、日本を代表する前方後円墳が数基存在して大きな古墳公園を存立させている。この古墳が東国を代表する大豪族(大王)であることは、古墳の規模から、一大工事・事業であったことは確かで、可能にしたのは大豪族の富が莫大であったと言うこと。この大豪族と四道将軍の誰かと関係があったとする説も存在するが、確かではない。
仮説であるが、大和朝廷が東国を平定したとき、東国在住の豪族は、大和朝廷に服従を誓い土地をそのまま安堵された。その代償として一定期間の朝廷勤務を命じられ、それが武渟川別命にとっては、東征・征夷の蝦夷の征伐であった。この任務を成功裏にやり遂げると、武渟川別命は”将軍”の名をもって故郷へ帰った。後年の平将門なども朝廷などに勤務している所を見ると、この時代から既に土地安堵の代償として朝廷勤務の奉公の概念は存在していたのではないか、と思う。そうすれば、親と覚しき大彦命もこの近辺の人で、あるいは行田に住んで、古墳墳墓の主になったという仮説が成立する。
そうとでも考えなければ、東征・征夷のために、通過しただけの比企の地方に、晩年に舞い戻るという理由が見つからないのだ。
同じ武蔵野の地名ながら、東京周辺には古墳が存在しないのは地理的理由で、その時東京は海か海辺であり、豪族が定住するには無理があったのだろう。

*例えば、将軍沢/将軍神社 

--将軍沢にある日吉神社の境内には将軍神社。日吉神社の参道に建つ将軍神社は征夷大将軍坂上田村麻呂を祀ったもの・・延暦十五年(796)には陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して戦争正面を指揮する官職をすべてあわせ、加えて翌年には征夷大将軍に任じられた。延暦二十年(801)に遠征に出て成功を収め、夷賊(蝦夷)の討伏を報じた。この二回の東征の途中のどちらかに比企地方に宿泊したというらしい。
・・場所は、笛吹峠から嵐山町へ向かう大蔵手前の集落。将軍沢の”沢”に拘ると、山の小川をイメージするが、どうも集落名らしい。・・伝承として残るのは、「東松山市の岩殿周辺で人々を苦しめていた悪龍を坂上田村麻呂が退治した」話。
・・坂上田村麻呂が生きた時代は、奈良時代 - 平安時代前期で、生:天平二年(758)-没:弘仁二年(811)と考証されています。

・・この悪龍退治に池の近くの巌殿正法寺は、「寺伝によれば、養老二(718)年に沙門逸海がこの地で修行をしていた際、霊夢に僧侶に化した観音様が現れたため、逸海は千手観音像を刻み、四十八峰、九十九谷といわれた岩殿山の山腹の崖を削り、その岩窟に安置して、そのかたわらに正法庵をむすんだのが開山とされ」、悪龍退治はこの頃の伝承と言われています。
この話は眉唾物で、龍という想像上の動物も創作であり、時代考証もかなりいい加減です。巌殿正法寺自体、その頃(718)に存在していたとは思えません。
勝呂廃寺を含め、比企郡周辺に散在する初期古代寺院は、ほぼ600年期から700年前期にかけて作られたであろうことが歴史考証されています。

比企周辺の古代寺院(廃寺)は、・・
 ・寺谷廃寺(滑川町)
 ・馬騎の内廃寺(寄居町)
 ・西別府廃寺(熊谷市)
 ・勝呂廃寺(坂戸市)
 ・小用廃寺(鳩山町)


・寺谷廃寺(滑川町)・てらやつはいじ。
-市野川に隣接する水田地帯です。平谷窯跡・たいらやつかまあと、と付近に沼が点在します。寺谷廃寺は東国最古の寺とされています。

・馬騎の内廃寺(寄居町) 名前からして官製牧場があったと思われます。-場所は、R140とR254の共用道路の天沼陸橋を渡ると右・富岡方面R254、左・秩父方面R140の分岐点、この背後に馬騎の内廃寺があります。川は荒川玉淀付近。釣りの名所・円良田湖を水源とする円良田川も流れます

・西別府廃寺(熊谷市)深谷と熊谷の境界あたり水田地帯。
-西別府遺跡群。深谷市幡羅遺跡。西別府遺跡・古代寺院の西別府廃寺。祭祀遺跡。3つの遺跡が有機的に機能。隣接で福川が流れ、深谷と熊谷の境界になっています。

・小用廃寺(鳩山町)
-越辺川の左岸台地上には小用廃寺。鎌倉街道上道沿いの鳩山町今宿の西隣が小用。南北朝時代から鋳物の生産地であったようです。”たたら”の痕跡は見つかっていません。

・勝呂廃寺(坂戸市)-この文章の命題につき略。

・・・この廃寺の一連は、古代鎌倉街道で繋がっているのかも知れない。

その立地場所を確認すると、田園の中と河川の沿岸でほぼ平地にあるようです。これは、古代寺院が建立された目的が、「仏教の全国普及展開と渡来文化の伝搬、全国への覇権確立」であり、さらに「農耕の新技術」の伝搬も兼ねていたのかも知れません。従って人が住む場所や目立つ場所の平地や河川沿いが選ばれたのだと理解出来ます。瓦屋根の偉容を誇るにも民衆が見てくれなければ目的は果たせません。

寺院・仏教にも発展に歴史があり、発展の段階や過程があります。
山岳仏教が修行をかねて流行ってくるのは、空海や最澄の時代以降で、比叡山や高野山の密教の寺が山中に立地してくる時代は、初期から少なくとも50~100年後のようです。巌殿正法寺の建立時期(718)とあり、この時代に、山中に隠れて山陰に目立たなく建つ寺があることは時代が合いません。正法寺が古代寺院であったという噂も聴きません。どうも伝承の創作は、時に時代を簡単に飛び越えてしまうようです。

坂上田村麻呂が比企に来たのは事実としても、武渟川別命・将軍の事跡と重なっている可能性も考えられます。
なお、比企周辺の古代寺院の廃寺になった理由は、火事や老朽化などではなく、洪水による流失・損壊と見た方が合理的です。
いずれにしても、これだけ古墳時代、飛鳥時代、奈良時代の遺跡や伝承が残っていると言うことは、この比企周辺の地は、朝廷の橋頭堡的存在であり、かなり先進的な地域であったことは疑いの余地はなさそうです。