ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

謹賀新年

2015-01-01 00:35:17 | 時事ニュース

謹賀新年



新春・・ドライブ お奨め ・・・

未年 羊の牧場 それぞれ 高原牧場です

 


羊のこと

埼玉の東・・日高地方に高麗の郷というのがある。
そこに鎮座するのが高麗神社。むかし朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光を主祭神とする神社らしい。

この神社は、”出世明神”の別名がある。

境内に、掲示されている”芳名札”を見ると面白い。浜口雄幸や鳩山一郎などの名前がある。文学者としては、檀一雄や坂口安吾、太宰治の名前もある。最近では、小泉純一郎の名前もあったように記憶するが、記憶は不確か。手水場は、空手の大山倍達氏の奉納だったような気がする。


 ・・・・ 高麗王若光の読みは、”こまのこきしじゃっこう”、「王」を”こきし”と読む。
高麗王若光の霊廟は、高麗神社から歩いて約5分の、神社の並びの日和田山の山麓に建つ。その名は、聖天院・勝楽寺。高麗氏の菩提寺で、若光の三男とされる聖雲が建立した。
寺の雷門手前右側に、若光の墓とされる高麗王廟があり、本堂左側には若光の銅像がある。

 

 ・・・・ ここに、狛犬のように、”羊”が若光の墓を守るがごとく存在するのだ ・・

若光が渡来した年代は、社伝にはない。しかし『日本書紀』の天智天皇称制五年(666)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名が見つけられると言います。つづいて、『続日本紀』文武天皇大宝三年(703)に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記載があり、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、帰るべき祖国を失い、さらに帰れば身の危険を察し、日本の留まったことは当然考えられ、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と思われる ・・・・高麗神社由来。

さて、羊のことだが、・・・・・
中国の古書・『逸周書』王会篇に、 ・・・・「西周初年。周の成王は洛邑(洛陽)を創建した後、諸侯を招いて大会を催した。この会議に参加した東北の高夷は、高句麗族の源流である」
「紀元前1046年、周武王が商を滅ぼすと、高夷氏は周朝の東方に居を置き、周朝の属国として高句麗と称した。後の東北の高句麗である」とある。さらに、『逸周書』王会弟五十九成周之会に、
・・「北方臺正東、高夷?羊、?羊者、羊而四角。獨鹿??、??善走者也。孤竹距虚。不令支玄・。不屠何青熊。東胡黄羆。山戎戎菽、其西般吾白虎文」
とある。意味不明の語彙の羅列 ・・・
冴えない頭は理解を拒絶しているので、解説を利用すると ・・・ (中国の)北方台地の東、高夷は高句麗の昔の名前もしくは別称で、?羊(けんよう=頬袋をもつ羊)、?羊とは四角い羊である。なにやら特産品のことを述べているようだが、この高夷に関して、隋書を編纂した唐代の学者「孔頻達」は、次のように注釈を記している。 ・・・ 北方台地の東の高夷氏とは東北夷の高句麗である。 ・・・ 高夷氏は山東省に登場する最古の部族で、大地に鵠(おおはくちょう)のトーテムを祀り、東夷族の中原進入に従って、商時代には河南省北部に進入していった。やがて中原から東北地方に移住した高夷氏は、後に高句麗と名乗った、という。
要するに、読解不能な語彙もあるが、判読可能なところをつなぎ合わせると、高句麗は大陸東北部から朝鮮半島の大陸寄りまでの広範囲に活躍し、その生業は羊の遊牧であったようだ。その羊は四の角を有していたらしい。
羊飼いの遊牧民はユーラシア大陸を東へ西へ闊歩していた遊牧民と同質であった。
つまり羊に対する扱いと信仰は、ユーラシア大陸の他の遊牧民と類似していたことが類推され、食の糧であるとともに、生け贄の対象でもあり、死者への鎮魂の神でもあった、と考えてもあながち外れてはいないだろう。
古代仏教を、現地まで赴いて伝授された弘法大師の教えの中に、仏教の経典を読み解いて、「羊」「鎮魂の羊」「一代守本尊の羊」などがあるが、教義は直接的・教条的で、 日本では日常の生活の中で、羊とのなじみは薄かった。
しかし、弘法大師の書の中の引用に、高句麗の王族の陵墓に「鎮魂獣」として置かれた羊 と言う表現があるという。
「羊のいけにえ」については、キリスト教も、そのもとになったユダヤ教も、ゾロアスター教も、羊を信仰の儀式に使い、キリスト教はペルシャのゾロアスター教の影響が強いから、『新約聖書』は「羊」と言いつつ「世界の支配者」を示しているといわれている。

日本への伝来は相当早い時期になる。しかし羊の実物となると、日本には存在してないわけで ・・・・・。
したがって、鎮魂の羊は、とりあえず日本では古書の中だけの存在となる。やがて宗教に儀式が必要になり、海の向こうの珍獣や想像獣たちは形を整えて信仰の中に出現するようになる

「生け贄の羊」は、大陸から来た信仰儀礼の中で、鹿が代用されるようにもなる。
いまでも残る諏訪神社の古式儀礼の「鹿の贄」は、大陸からの、それも遊牧民からの伝承であろうと推測されている。神社の古式伝統行事には、ユーラシア大陸と似通うものが多いと訊く。
また各地に残る、羊や羊太夫伝承は、大陸系渡来人、高句麗や秦族の居住の地を指し示しているようにも思う。むかし語り継がれてきた意味は途切れ、もはや地名と碑だけが残る。

こうしてみてくると、干支の未は、古くに渡来人を先達として、昔の日本の知識人が習い覚えた鎮魂獣を、未消化のまま伝えたとする面がかなり強い。
そして今年、羊の年を迎えた。
願わくば ・・・・・”荒ぶる魂”を鎮める鎮魂の歳であって欲しいものだ。

 

気になるところ

・・・「高夷氏は山東省に登場する最古の部族で、大地に鵠(おおはくちょう)のトーテムを祀り」

高夷(=高句麗の古名)が、白鳥を信仰の対象にしていたことが見えてきました。古事記や日本書紀の挿話や伝承を、なんでもかんでも渡来人に結びつけるのもいささか考えすぎのような気がしますが、それでも谷川健一の「白鳥伝説」との関係が頭に浮かびます。・・・日本武尊が遠征の旅に疲れて、故郷近くで病に伏せたとき、日本武尊にかわって、故郷へ向かって飛んでいったのが白鳥・・・だったように記憶しています。つまり、白鳥は、日本武尊であるわけで、この伝説の根底には、渡来人の信仰が存在するように思えてなりません。・・・この白鳥伝説が、日本武尊の伝承にでてくるのは、かなり唐突感があり、違和感を覚えていたので気になりました。