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ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

藤沢・黒河内荘 溝口あたり ・・・

2013-08-29 20:46:57 | 歴史

高遠から、白山トンネルを潜り、しばらく行くとダムが見えてくる。・・・ここが美和ダム 

そして、これが美和湖・・・

上流で、モーターボートとラフティングをやっているのが見える。ラフティングは急流でやるスポーツだから、初心者への手ほどきも知れない。

三峰川のダムやダム湖なのに、なぜ美和ダムなのだろうか、訝しがって地元の人に尋ねると、湖底に沈んだ集落が美和というのだそうだ。このダムは砂防ダムが主たる目的だという。つまり、三峰川は、地層帯の合わせ目、中央構造線の真上を流れ、土砂崩れや谷を削った土砂が河床を積み上げ、河床が積み上がれば氾濫が起こりやすくなる。その悲劇の歴史を繰り返して、ようやく砂防ダムにたどり着いたという。さらに、三峰川から分流して、東春近に流したおかげで、畑作ばかりの東春近に水田が出来たという。もともと、自然を破壊してコンクリートのダムを作るのは好きではないが、地元の悲劇を知れば、納得しないわけにはいかない。

その美和湖のほとりにある、道の駅

・・道の駅 南アルプス村長谷 と言うのだそうだ。大きくないが、まとまっていて小綺麗。

”パン屋さん”が人気、アルプス村の名から、勝手にイメージするのは”チロル”風・・・

さて、次は溝口へ

      ・・暫く走って、宗良親王の名と常福寺の名を見つける。

常福地本堂・・

 

 ・・かなりの数の馬頭観音です。

南北朝時代、南朝の宗良親王を守って倒れた、上野(群馬・太田)の新田一族の無名戦士の墓とも言われています。南朝が不利の時、続々とこの地に逃れ来て隠棲し、再起を待ったとも言われています。何割かは、この地に住み着いたとも、大徳王寺の戦いで北朝側に敗れたとも言われています。南朝の、宗良親王の痕跡は、大鹿村や諏訪大社ばかりではないようです。昔黒河内といったこの長谷村にも、この先の峠(杖突峠)を越した大草地区(中川村)にも、かなり残っています。相模次郎(北条時行)といい、宗良親王といい、この地の山岳は、時の権力に対峙して、悲劇の人を守り抜く優しさを持っているのでしょうか。

 

・・寺の裏山のお堂。名前はありません。

 

大徳王寺城 城跡

赤い屋根が常福寺になります。

南北朝時代の終わり頃、大徳王寺の戦いがあったことは、何冊かの古書で確認されていましたが、場所の特定が出来ませんでした。 昭和15年になって、常福寺の屋根裏から、宗良親王の関係する仏像や他が発見され、常福寺の裏山(=御山)が、大徳王寺跡だろうと推測されるようになりました。この時の南朝側は、北条時行と諏訪頼継だったようで、宗良親王は戦いに参加していません。

その後、この地を訪れた親王は、襲われてこの近くで死んだと言われています。

 

   ・・御山の遺跡の案内板と宗良親王の墓へ続く石段・・

  宗良親王のはか・・・

    ・・卵石は、坊さんの墓を意味します。

                                                                   合掌

 

 

 

 

 

 

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高遠の街並み 寺院,、神社 ・・・

2013-08-29 01:53:25 | 歴史

高遠に来たのは初めてである・・・。

歴史好きから、伊那忠次を知って、その関連で保科家を知り、色んな本を漁っている内に高遠は、来てもいないのに旧知の町になっている。今日は、時間がないので、町の有名旧跡と雰囲気だけになりそうだが・・・

本音の行きたいところは、峰山寺と遠照寺と台殿あたりの諏訪神社だが、峰山寺以外は下準備が不備で、地図案内が覚束ない・・・おそらく残念・・・

 ・・高遠の観光地図・・おそらく歩いて回れるところでしょうか?

メインの城は、今日の予定には入れません。

街並み風景をいくつか・・・

        

 蔵造りの家や店が点在する、懐かしい街並みです。いつまでも残して欲しいような気持ちになります。

 次は、建福寺・・

本堂、前に守屋貞冶の地蔵がありました(前回掲載)。

 

        ・・山門です・・・手入れの届いた寺で、背景に山を背負っています。

 

          墓地に墓が三基。

左から順に、諏訪御料、保科正直、保科正光 の墓です。

恐らく建立の順序も、この通りだと思われますが、武田勝の母が、なぜ並んでいるのか、考えても分かりません。それと、保科正俊と保科正則の墓がどこにあるのかも、興味があります。二人とも戦死したわけではないので、墓が無いのを、ずっと不思議に思っています。

次は蓮華寺・・・

本堂・この寺は、日蓮宗です。”絵島”は敬虔な日蓮宗徒であったようです。

  ・山門 ・絵島の墓 ・絵島の像

江島の墓は、大正5年に田山花袋によって発見されるまで、世間からは全く忘れられていました。

 

 次は、満光寺です・・

 本堂・

松が見えます。”極楽の松”と言って有名だそうです。一度見ると「極楽に行ける」とか・・・

 

 ・・鐘楼門、この方も有名、さすがに立派。

 

 

 

 ・・山門 ・・お堂

 

・・保科小源太の墓   内藤家の墓。

保科左源太は、保科正直の妹の子です。正直の継承した、保科正光は子がいませんでした。そこで、正光は、嫡子予定で、左源太を養子に迎えました。ところが、信玄の娘の見性院から、幸松の養子を依頼されます。幸松は、将軍家光の弟(後の正之)です。結局正之が相続し、左源太は秘されたまま暮らして、早死します。運命のいたずらなのか、悲劇なのか・・。

満光寺は、高遠藩内藤家の菩提寺です。内藤藩は、特に六代目、七代目が名君だったと言われています。内藤藩主の墓地が、ここにあります。

 

 

次は、峰山寺・・ほうざんじ

本堂・ 

 ・・こちらは、学校のようです?

この寺の背景の山は、月蔵山と呼びます。

ここ峰山寺には、高遠ゆかりの名士の墓がある。「高遠藩の藩学の祖」と言われる阪本天山、その門人で、「高遠の学」を完成させたとされる中村元恒、元恒の孫で「日本の林学の祖」と言われる中村弥六などである 

 

    大きな墓があります。文字は擦れて読めません。

おそらく、高遠藩主だった鳥居家の藩主の墓?だと思います。

この寺のもとは、文明寺と言います。保科正俊の参謀の文明寺某の寺です。和尚なので、保科家の家臣とは少し違いそうです。その時代の痕跡が少しでもあれば・・・と思ったのですが、簡単に分かるわけありませんよね。正俊の”鉾持除けの戦い”で活躍したそうです・・・「槍弾正の逆襲」・中村彰彦

文明寺は廃寺となって、鳥居家が藩主で高遠に来た時、鳥居家の菩提寺で再興したそうです。

 

次は、鉾持神社・・

 

  ・・長い石段です。高遠の鎮守でしょうか。

この山を背に、この神社と建福寺と蓮華寺が並びます。

 

 

 

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