ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

三州街道 塩の道 足助

2013-08-19 12:11:22 | 日記

三州街道 足助宿 ・・・今は豊田市足助 の街風景です・・・

蔵屋敷の風景は、郷愁を呼びます・・・

 

昔、塩問屋だった、・・・莨屋(タバコヤ)さん

 足助川・・     ・・この川は、巴川に繋ぎ、やがて矢作川に合流します・・

 格子戸の見世  ・・バスの待合、潜ると休憩所と御輿倉、奥は裏通りに・ 

  

           足助城 転記

足助 塩問屋 宿場・・・

三河湾等でつくられた塩は、足助で運搬に便利なように七貫目(約26kg)に俵を包み直したため、「足助塩」、「足助直し」と呼ばれました。塩は一頭の馬の背に四俵乗せて、江戸時代には年間五〇〇〇頭を超える馬が信州向けの塩を運んだといわれます。信州からは年貢米・たばこなどの山の幸が運ばれました。この街道で物資を運搬した人々を中馬と呼び、伊那街道は中馬街道とも呼ばれました。

天和元年(1681)に、七〇〇〇石の旗本本多氏が知行地として陣屋を置き、幕末まで足助町を支配しました。宿場町と商業の中心地として、本多氏が与えた特権などにより豊かな御用商人も生まれました。この時期の経済力が、足助の歴史的な町並みをつくったのです。特権の一つとして、足助町の問屋連中は馬稼ぎ人から「荷ノ口銭」と呼ばれる通行税を徴収したため、江戸時代末期に足助の商人が打ち壊しにあった「加茂一揆」や通行税廃止を求める争い「荷ノ」が起こりました。

明治時代になり、盛んな物資輸送で足助の町はさらに繁栄しましたが、明治四〇年(1907)に国鉄中央線が30km北の東濃地域に開通すると、信州と結ぶ交通の要衝としての役割は全くなくなりました。

足助城

足助城の城主は、鈴木氏で、盟主は今川だったり家康だったりしたようです。武田信玄の三河侵攻の時落とされて、暫く信玄配下の下条氏の守城になりました。この頃、桶狭間の戦いがあり、今川家は信長に滅ぼされます。そして、信玄と駿河の境界線協定を行い、家康は、三河と遠州と駿河の三国の太守になります。大大名への出発です。この境界線の策定をしたのは、信玄側は足助守城下条氏で、家康側は東三河の旗頭酒井忠次であったとされます。

・・・足助の町は、蔵が残る風情のある町でした。不満は、昼時リーズナブルな食事の場所が見つからなかったこと、車の駐車場が見つからなかったこと・・これは当日夜祭のためかも知れませんが・・できれば平谷のように”道の駅”があれば、便利に思います。・・・これで、リターン、帰路につきます・・・

コメント (1)
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