日本人は、学校や会社や役所などの「団体」の慣習・上位者の意思には極めて従順ですが、なぜ、みなでつくる公共性がないのでしょうか?
互いに対等な立場で、自由に意見を出し合い・言い合いして合意や妥当を導きだすことは日本社会ではほとんど行われていません。慣例に従い、上位者の意向に従うことが暗黙のうちに前提されていて、みなでつくり上げていく公共性の世界がないのです。
市民の公共性が社会-国をつくるというのは、欧米では当然の話ですが、日本ではそれがありません。組織や団体の慣例=惰性に黙って従うのが当たり前になっています。
近代の市民社会を成立させる基盤がこの公共性ですが、なぜ、日本ではそれが育たなかったのでしょうか?
その原因は明らかです。
明治維新による近代化は、伊藤博文らが中心となってつくった天皇の神格化=欧米のキリスト教のような絶対的な宗教(一神教)をつくるために、伊藤ら明治維新の立役者(過激派の人々)は、皇室の伝統を用いて天皇現人神という《政府神道》をつくり、天皇を生き神として全国民に崇拝ー敬愛させることにしたからです。『大日本帝憲法』の制定で、「天皇は神聖にして犯すべからず」と規定しましたが、これは現代の言葉で言えば、カルトです。国家が権力を用いてカルト宗教を国民に浸透させていったわけです。
憲法で主権者(国の最高の力をもつ者)とされた天皇は、陸軍と海軍の統帥権をもち、同時に宗教上の絶対者=現人神とされたのですから、日本臣民(国民ではなく君主に従う臣民とされた)は、自分たち皆の自由と責任で国をつくるという「公共性」を元から奪われてしまったわけです。
国民=臣民に求められたのは、「天皇のために=お国ために」という思想と行為であり、 「滅私奉公」(私を滅して公=天皇に奉仕する)という道徳であり、日本独自の優れた思想とされた「忠」の精神(最上位者を天皇陛下とする上位者の言動に忠実であること)でした。
ですから、「天皇を中心とする神の国」(現代においても森元首相が言明)では、一人ひとの対等な市民が話し合って物事を決め、その結果に責任を負うという思想は育ちませんし、国をつくり、守り、発展させるのは、市民の共同意志であり、市民の自由と責任によるのだという想念ー思想は生まれないのです。
市民みなの共同意思と行為の上に、いつもその上にたつ「公」(おおやけ)という世界があるということになりますから、市民の共同意思=公共性は、「公」に従うもの、奉仕するものとなり、公共性は自立できないわけです。一人ひとりの国民は、公共性に従うのではなく、公(おおやけ)と呼ばれる天皇の意思=官僚政府の意思に従うことになりますが、これでは近代社会市民社会による国家(対等な市民がつくる社会契約による国)ではなく、予め決められている社会観や国家観に従う臣民としての存在にしかならないーなれないわけです。
天皇に従う時にだけ人として国民として認められるという国は、民主性・民主制・民主政ではなく、神聖国家です。
明治の近代化が、このような世界に例を見ない国家宗教(現代の言葉ではカルト教)により超スピードで進められた結果、日本人は、極端なまでに効率第一主義・技術主義(技術偏愛)・形式主義=儀式主義に染め上げられてしまい、一人ひとりの心の内側から内的・内発的に考えを生み・行為するのではなく、外なる価値を追いかけることが人生だと思い込むようになったのです。
生きている人間を神として崇めるという「禁じ手」を用いて、有無を言わせずに全国民を一つにまとめ上げ、強制的なスピードで近代化を成し遂げたわが日本は、その深い負の遺産(心の内からではなく外なる価値に従い生きる)を清算できません。清算できないどころか、現安倍政権は、過去の天皇主義をよしとする「日本会議」のメンバーであり、再び戦前思想への回帰を求めているありさまです。
明治政府がつくった天皇ないし皇室中心主義という思想を続ける限り、わが日本という国には、みなの自由意志と責任でつくる「公共性」は赤子のまま成長できず、いつまでも公(おおやけ)という官僚政府が市民の上にたつ「主権在民」ならぬ「主権在官」の世界から抜けだせません。余談ですが、いまの天皇の明仁さんもこうした現状を批判的に見ているのはまちがいありません。
みなで公共性をつくり、公共世界を拓きたいものですね。これは、たぶん、皆の本心だと思います。
最後に、欧米のキリスト教は強い一神教ですから、イギリスのロックの思想のように、宗教の原理主義により民主制を基礎づける思想は、現代においては成立しません。宗教ではなく、フィロソフィーにより基礎付けなくてはいけません。
ただし、英米においてはキリスト教原理主義である清教徒思想により民主主義がはじまったのでは事実ですし、そういう強い宗教=イデオロギーが必要だったのも確かです。それを見た伊藤博文が、日本の近代化にはそれと類似の宗教が必要だと思ったわけですが、あらゆる人間と人間の営みを超えた「超越者としての神」という思想と、現実に存在する天皇家という家と天皇を神格化するのでは、根本的に思想が異なります。超越者として置くのを人間であり一家族であるとしてしまうと、その現人神という極限的な権威主義は、一人ひとりを「個人」(自由と責任をもった主体者)として自立させず、豊かな内面宇宙をつくらせず、集団主義の価値観=外なる世界に合わせるだけの存在に人間を貶めてしまいます。
それでは、根源的な人権侵害となりなり、幸福をつくらないシステムをつくることになります。
フィロソフィー(恋知)の生をはじめたいものです。
武田康弘