思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

全体知は生活世界の言葉で。

2008-01-18 | メール・往復書簡
下のブログに対するミクシィのコメントです。

ヨッシー 2008年01月16日 23:43 タケセンさん  生活世界から立ち上がる匂い、そこにエロスを感じます。  知に恋することの意味は、問いを問い続けることではないかと思っています。  ではでは ヨッシー ーーーーーーーーーーーーーーーーー

タケセン 2008年01月17日 11:17 ヨッシーさん、 コメントありがとう。 わたしは、生活世界から立ち上がるー立ち上げる、ということを、二次的な言語世界で言うのではなく、ナマの具体的現実を踏まえて、生活世界で通用するような言葉ー思想として語るのが固有名詞としての「公共哲学」ではなく、一般名詞としての公共哲学ー公共思想だと思っています。その点、ヨィシーさんとも共通すると思います。 ーーーーーーーーーーーーーーー

ヨッシー 2008年01月18日 00:21 タケセンさん  本来、哲学と命名すると、何れ劣らずアカデミズムに接近すると思います。「立ち上がる匂い」という喩は、ノンバーバルな事象も含む現実へと思いが至ることへの思いからです。  問いを問い続けることの意味は、ノンバーバルな世界へと接近する唯一の方法だと感じています。  語りたい欲求はあっても、語り得ないという焦燥、それが現実だと思うのです。  固有名詞としてではない、一般名詞としての、という感覚は理解できます。多分共通していると思います。  ではでは ヨッシー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

タケセン 2008年01月18日 09:22 言語化できない、あるいは、とてもしずらいことを、なんとか言語化しよう、という無理な努力!?が哲学の営みのように思います。人間の生に関する問題の考察・判断は、広義の感情世界の中でしか成立しないと思いますが、その言語化できない心の赤裸々な思いをどのようにして言葉にするか?ある種文学とも共通する課題ですが、それを全体的な論理=悟性に対して弁証法的理性として行おうという試みです。わたしはそれを日常言語の世界に引きずり降ろして、ふつの言語で語る文化を生む出せないか?と考え、実践しているわけですが、「ドンキホーテ」かもしれません。 ------------------------------------

おまけーーさあ、今日は、今から鎌ヶ谷市公民館で「てつがく講座」です。2008年最初の講座なので、新年会気分(笑)で出かけます。もう10年になりますが、主婦の方中心の会です。何事も長く続けるには、よき理念の強い意識化と持続する意思を支える場の二つが必要です。何があってもブレないのがわたしですが、煮ても焼いても食えない、とも言われます。これ以上はない最高の賛辞だと感じています。みなさんありがとう!

武田康弘。
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