思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

能動性の哲学  西山裕天

2010-04-02 | 恋知(哲学)

先週と先々週、白樺教育館・ソクラテス教室の『高校・大学・一般クラス』で、【能動性の哲学】についての授業をしました(参議院の行政監視委員会調査室でもその一部を行いました)。

以下は、2回・合計7時間の授業を受けた後で、西山裕天君(高校3年生・4月からは大学生)が書いたレポートです。大変優れていると思いますのでご紹介します。これは彼がひとりで書いたもので、まったく添削していません。現代の教育・哲学・知の捉え方(いわゆる「東大病」)の問題点を体験を踏まえ自分の言葉で的確に突いたもので、先日の参議院でのわたしの講義にも使いましたが、官の人たちも深く納得していました。(武田康弘)



能動性の哲学        西山裕天

哲学の出発点は、様々な疑問に対して自分の頭で考える事。
だから、「これについて○○という人がこう考えた。これは○○主義ってヤツだね。」とか「△△という本で□□という人が書いていた、××論と呼ばれる物です。」等と知識をひけらかす事を哲学とは呼ばない。つまり『受動性』の哲学とは本来存在し得ない。
例えば、単純に本を読むということでも、読み方によって『能動的な哲学』として自分の物にも出来るし、どこか外にある『受動的な~』にもなってしまう。

◎ 本を読む
・本での対義語、接続語、反語、そして熟語や慣用句等の関係性を見極める。
(例:この文の「これ」はココを指す。ココからココまでが引用。ココからは筆者の主張。この文の「しかし」にマーカー!注意して。等)
完全に理解しても機械的なので全く解からない。学校のテストでは点取れますが。

・作者の言わんとすることを的確に理解する。他の知識がちょっとあれば、さも自分で考
えたような感想文が書けます。
(例:作者はココでこんな事を言っています。しかし一方でこんな主張をする人もいます。私はこっちの方が良いとおもいます。)
国語が得意と鼻が高い人でこのような人がいました。先生は誉めてくれます。

しかしどちらも、哲学的かと考えると大きなクエスチョンマークが付く。
そうではなくて、「自分はこう思う。理由はこうこう、こうだからだ。」と頭の中で考えて言える状態、責任を持って「自分の考え」として言える状態になると「能動的に」本を読んだということになるのではないだろうか。
この時本を読んだ人は、本により「受動的に」教えられていたはずが、自分自身の確信と考えにより『能動的に自分が考え出した』と言っても良い状態になる。
もしかしたら、「なんで僕が考えたことが本に載ってるんだ?」と思うかもしれない。(笑)
これは、真にその考え方を自分の考えの一部として根付かし、自分の哲学として成立したと言ってよいと思う。

最後に、「あくまでも本は参考として読む」という事について。
これは片手間にさらっと読み流す事では決してない。「これから考えようとする事を哲学の歴史の中で考えた人がいるのなら、0から考え直すというのは膨大な時間が掛かる(また二度手間)ので自分の中に確信を作る手助けとしてしっかりと読むという事」だと思う。

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