思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

民主主義とは、幼いころからの順を踏んだ教育がなければ、現実化しません。

2010-08-22 | 社会思想

民主主義の本質とは、公正な選挙制度や多数決による決定ではありません。それらは単に手段でしかなく、必要条件でしかないのです。

民主主義の現実化のためには、
日々の生活の中で自分が感じ思うところを反省し、そこから「自分の考えをつくる」努力(=広義の教育)がまず先に求められます。その自問自答を、「他者との自由で対等な対話」の積極的な実践とその力を強めるための努力(=広義の教育)と並行して行い、それによって「ものごとを決めていく」実践(=広義の教育)を日常的に行うことが必要です。

「考え・対話し・決定する」力をつける意識的な努力=教育実践がなければ、民主主義とはただの言葉=概念・理論に留まりますが、それでは民主主義は意味をなさず、死んでしまいます。民主主義とは実践なのであり、観賞的な理論なのではありません。名詞ではなく、動詞として遇さなければならないのです。現実の生活の中で「よりよい」を目がける討論をしてそれにより決定するという日本人には一番苦手な分野の実践です。したがって、日本の民主化のためには学校教育そのものの改革が必要で、そのためには、知に対する見方を根本的に変える必要があります。わたしのいう「主観性の知」の育成です。ドリルに答えが書いてあるという客観知は知の手段であり目的でないことを明晰に意識しなければ、「私」の充実も民主主義の深まりも得られません。

現実の中で、自分の具体的経験を踏まえて、自分の頭で考えるというのがほんらいの哲学成立の基本条件であり、ハーバードのサンデルの授業などは、大学教授のパフォーマンス=言論ショーでしかありません。日常的な現実とは無縁な想定による言語ゲーム=ディベート(ちなみにソクラテスの哲学はディベートの徹底した否定から生まれたのです)に幻惑されることなく、自分自身にとって身近で重要な問題を現実に沿って考え、対話・議論し、それにより決定するという実践こそが、互いの自由を活かし合う民主主義をよく現実化する唯一の方法です。

民主主義とは只の制度のことではなく、「民主的に生きる」という実践の中でしか現実化せず、意味をもちません。各人が自由に考え生きることで【責任】を負い合う制度が民主主義なのです。人類は、民主主義に耐えられるだけの存在へと高まる必要があり、それなくしては未来はないでしょう。


武田康弘
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