思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

内田さんとの対話・武田の根源的選択=恋知としての哲学。ハイデガー&大学哲学批判など。

2010-11-04 | 恋知(哲学)
武田先生

石橋さんの思想の適切な紹介ありがとうございます。京都フォーラムで報告する機会があったら「生活の哲学」を中心に王堂と湛山を語りたいと思います。その思想の原点はデューイです。本当は、ジェイムズの影響もあったので湛山と柳宗悦の関係も将来は考えます。日本におけるプラグマティズムの開花は、石橋さんと柳さんの思想だと思っています。決して職業哲学者のものではないのです。だから民知なのです。

内田卓志
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内田さん

わたしは、哲学としてはジェームズの方が徹底している、と思っていますが、社会的な影響としては、デューイですね。ただデューイも文章が下手ですから、明晰・分明な解説が必要で、いまの世界に活かせるような紹介をしないと、多くの人のものになりません。石橋湛山は大変明快ですので、解説は余分でいりませんが。

ただ、彼らの思想からわたしの「民知」という考えが出てきたのでは全くないのです。結果として似ていても、その文脈は異なり、わたしは、自分自身の経験から(特に小学校高学年と中学生のときの経験)、生きるか死ぬかの切実な問題意識(子どもは、どんなにもがいても偏差値教育・受験知教育の中から抜けられず、自分がまっとうな知の追求をすればするほど追い詰められていく)から、生死をかけた言葉・思想・仕事として、【恋知としての哲学=民知】を提唱しています。わたし自身がそれを生きているのであり、対象化された理論ではありません。

わたしは、過去から直接に学ぶことをしないのです。私の切実な問題(わたしが思う切実な社会問題)を私の具体的経験から立ち上げて考えてきたのであり、過去の書物は、「思考の訓練」&「基礎的な哲学用語の習得」いう意味で学んだに過ぎません(真剣に学びましたが)ので、それらの思想を直接に参考にはしていないのです。もし、それらがわたしの思想と似ていれば、もちろん嬉しくなり励まされますが。

また、原理としての社会思想をまさに原理として定着させるのも、この基本姿勢(生き方)があればこそだと思っています。原理が生きて原理としての役割を果たすには、上記のような構え・姿勢が必要であり、そうでないと、原理はその意味と価値を現実において発揮することはないのです。ハイデガーに代表される受動的な哲学(存在論)は根本悪であり、能動的な存在論を基盤にしなければ、原理は絵に描いた餅に留まる他はないと思います。核心は、わたし自身がどう生きるか、どう生きているか、であり、哲学説の研究はあくまでも哲学研究であり、哲学ではない、それがわたしの究極の判断です。

だから、わたしは、哲学を哲学研究とする態度とは無縁です。
東大出版会を足場にする金泰昌さんと一緒に仕事をしたのは、わたしの【恋知としての哲学=民知】は、既存の権威・組織に取り上げてもらわないと、現実的な力・広がりをもたないと思ったからです。民知は愚直に民知のままでは、学知=権威の前で一段低いものと見なされるだけですから、それを覆すには、あえて既存の権威に乗って、その内容によって既存の権威を上回ることが必要なのです。

わたしは、21世紀の哲学は、過去とは大きく異なるものにならねばならず、「従来の哲学の改良」というレベルではダメなのだ、という見切りの下で、日々を哲学している(=実存として生きている)のです。それがわたしの人生の選び(=根源的選択)なのです。

武田康弘
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武田先生

先生の哲学についての詳細なご説明ありがとうございます。
金先生との対話(金泰昌・武田康弘の哲学往復書簡・東大出版会)を電車の中で少し読んでいました。
先生のスタイルは一貫したもので、以前より共感しております。
過去の優れた哲学者も、自ら考え、そして思想化した歴史だったと思います。

「わたしは、自分自身の経験から(特に小学校高学年と中学生のときの経験)、生きるか死ぬかの切実な問題意識(子どもは、どんなにもがいても偏差値教育・受験知教育の中から抜けられず、自分がまっとうな知の追求をすればするほど追い詰められていく)から、生死をかけた言葉ー思想ー仕事として、【恋知とての哲学=民知】を提唱しています。わたし自身がそれを生きているのであり、対象化された理論ではありません。」

この武田先生の言葉は、とても心に響くもので、ここのところを解決しないといつまでも子供たちは、アリジゴク的な苦痛から解放されないのです。少し考える子供ならきっと共感する内容だと思います。
 私にとって石橋湛山の言葉は、日本という環境で、生死をかけた言葉ー思想ー仕事として
引き継ぐべきものと思ったのです。ロマン的に言うと、石橋さんも武田先生もその思想には、
「人間の解放」への粘り強くかつ柔軟な意志を感じます。
 ただ、武田先生のような方は稀です。皆が先生のようにはなれないでしょう。私がいくら勉強
しても石橋さんにはなれないと同じです。人の思想や実存は、代替不可能です。それにこれほど徹底して哲学しようとする人はめったにいません。稀の稀です。(笑い)そこが先生の魅力です。
 武田先生の「生もの」の思想は、対象化された理論ではないと言われます。私は、そこから
思想や哲学することの意義を学ぼうと思います。
 それは所詮、私は私として考え、行為して、生活していくしかないからです。生きるための知恵として、武田先生の哲学する行為・態度からヒントやアイデアを得ようと思います。
それには、既成の悪しき学的権威に頼らない哲学を創らないとダメでしょう。うまく申し上げられませんが、生活内存在として、最後は自ら考え行為することができる「方法としての哲学」をするようになることが必要と思うのです。この方法とは、流行のハウツー本のような方法から最も遠い方法としての知なのです。
 私にとって石橋さんは、先生にとってのサルトルのように、学生の時から自分を最も勇気づけてくれる存在なのです。やはり「戦う石橋湛山」ではないですが、どこかで戦わないとそして、破壊していかないと創造はないのかもしれません。年末までには我孫子へ伺う予定です。    

追伸
ハイデガーについては、ほぼ武田先生のご意見に賛成です。あの後期の受動性の存在論から、民の生き方を導き出せるはずもないのです。
ハイデガーの後期の哲学は、詩的な観想の世界とでも言うべきもので、一人閉じられた言語空間を遊んでいる感じですね。つまり主観とか主体を消去して、人間存在を存在そのものに委ねることになります。この思想からは、生活を主体的に切り開いて生きていく思想、その創造の余地はありません。存在と存在者を区別して、存在の声を存在者である人間存在は聴従するしかないと言います。これでは全く人の主体的認識や主体的行為の入り込む余地は全くないのです。市井の民にとっては、関係なく、大学の研究者や私のような哲学マニアだけの知的興味(遊戯)の対象です。それ以上の効果は期待なしです。それでも間違いから学ぶ必要はあります。

内田
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内田さん

ハイデガーは、「存在と存在者を区別して、存在の声を存在者である人間存在は聴従するしかないと言います。」(内田)

ハイデガーの思想をどう評価するか?は、大学の哲学科教授であろうと、民間の哲学者であろうと、それ以外の者であろうと、何かの専門家であろうと、そうした属性に関わらないはずです。

「存在の声を存在者である人間存在は聴従するしかない」、というのは、人間存在とは何か、という「人間の本質」を暗黙のうちに措定しなければ言えない言葉=思想です。そのような考え方を認められるか否かは、専門家、非専門家であるかに関係しません。

ハイデガーの暗黙の想定は、「人間存在の原理論」上許されるものではなく、それを許せば、人間の生き方の上下を、「哲学」学の専門家が判定できるという話になってしまいます。自分は哲学者だから、ふつうの人とは違い、永劫的真理という見方が可能だ、という想念を導くことで、哲学をオタク化することになります。

だから、哲学は用済みになっているのです。大学内哲学に最終的に引導を渡さなければ、哲学の再生は不可能だ、それがわたしの見方です。

「存在の声を聴く」とは、沈思により心の内側から立ち昇る声を知ろうとする努力だと定義できますが、それをハイデガーのように形而上学的なレベルの話にしてはならず、「生活の中での沈思の営み」とし、実践することが求められるのです。それが哲学の民主化・有用化・高品位化です。

武田
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武田先生

ご回答ありがとうございました。私はかつて勉強した哲学者の説は、ほとんど覚えていなく困ったものです。

 「学は用済みになっているのです。大学内哲学に最終的に引導を渡さなければ、哲学の再生は不可能だ、それがわたしの見方です。」(武田)

私も大学内哲学では、現状の困難は解決不能と思っています。その意見では先生と同じです。

「 「存在の声を聴く」とは、沈思により心の内側から立ち昇る声を知ろうとする努力だと定義できますが、それをハイデガーのように形而上学的なレベルの話にしてはならず、「生活の中での沈思の営み」とし、実践することが求められるのです。それが哲学の民主化・有用化・高品位化です。」(武田)

 ルソーの思想にも人間の内面の声を聴くことについての深い考察がありました。その意味でハイデガーも共通点があるのですが、ハイデガーの後期哲学は、あくまでも存在そのものが主なのです。人間は存在に従うもので、存在は人間を超越した何かとなってしまいます。だから行為や実践の余地はなく、哲学の民主化・有用化・高品位化には無縁です。存在の声だけ聴いているだけではダメで、そこから何らかの主体的な行為や実践が必要と思っています。ハイデガーは受身の哲学です。
だからこそ民知という優れた思想が必要なのです。

内田
コメント (1)
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