きぼう屋

生きているから生きている

2009年09月16日 | 教会のこと
神さまとご家族の支えのなかで
懸命にリハビリに励まれる教会の仲間がおられます
そして今驚くほど回復され
とても久しぶりに礼拝に参加できる
という現実味のある期待をいただくことができています

先日訪問させていただいたときに
具体的に礼拝に参加できそうな日程を仰られました

うれしくて
家に帰ってからそのことを息子たちにも伝えました

実はその仲間が礼拝に参加できるということは
息子たちの幼なじみであるその方の息子さんも
一緒にひさしぶりに教会に来ることができるということでもあって

息子たちはそれこそ喜びを爆発させていました

まさに爆発していました

夕食を囲んでいるときだったのですが
体も箸も宙を舞っておりました

ただ
その具体的日程が
息子たちの運動会と重なっておりまして

それに気づいたら
体も箸も宙で静止してしまいました



数秒の沈黙を経て

長男と次男がなんと同時に

じゃあ運動会休む!!

と言いまして・・・


わたしはそういう選択肢があるなんて思っていなかったので
しかも少し前には
運動会をえらく楽しみにしていて
インフルエンザの影響で開催が心配されていたけれども
開催することが決定したことをそれこそ宙に舞って喜んでいたし
それも出場する種目のことや応援歌のことをいろいろと教えてくれてもいまして

なのに
二人同時にそういう結論を叫んだことに
驚くしかなかったわけです


わたしは何の応答もできず
熱く運動会欠席を叫ぶ息子たちの甲高い声を聞きつつ

しばらくたって

でもな
その日に礼拝に参加できたら
その後も参加できるということだから
少し会えるのが遅くなるかもしれないけど
運動会は出といたら

というのがやっとでございましたが・・・


なんというか

しばらくぶりの友と会うということを
最優先にする生き様は
私の願うところでもあるし
イエスさまの願うところでもあろうと思うわけで

泣きたいくらい感動したのでした

というか泣いていたのでした・・・


いつも一緒にいることのできる仲間のところに
しばらくぶりの人やはじめての人が来たときに
その場が
いつも一緒の仲間のリズムとペースとテンションのままなのか
それとも
それらを停止して
しばらくぶりの人やはじめての人に開かれた新鮮な状態となることができるか


実は聖書の物語が常に教える重要な部分だと思うわけです

後者は
開かれた生きている交わりだと思います

前者は
もはや一定のリズムとペースとテンションに支配された
閉じて形骸化に向かう交わりだと思います

そして例えば運動会のように
リズムとかテンションを超えた
慣習上の強烈な原理があった場合
なおさら
ひさしぶりの友と会うことを選択することは難しいのだと思いますが


難しいと思っているのはわたしの精神性ゆえでして
息子たちは
そういうのから解放されてもいるんだなあ

学んだわけでした



イエスさまは
一匹の羊であるわたしを
いつも探してくれているから

感謝感謝なのであります


おしまい