きぼう屋

生きているから生きている

とりなし

2009年09月17日 | 教会のこと
この前の礼拝は
礼拝前に18名から欠席の連絡があり
礼拝後に2名から出席できなかったという連絡があり
連絡がない方でも欠席の方が多数おられ

ひさしぶりに
えらく少ないなあ
と感じました

43名の礼拝でした

でもふと思いました

赴任当初は
40名を超えたらえらく多いと感じたわけで・・・
えらく少ないと感じたときは20名に満たなかったわけでして・・・

5年くらい経って
そういえばどんなに少なくても30名以下にならなくなってるね
と妻と確認したことを覚えておりますし
ということは
その頃はえらく少ないと感じたときが30名くらいだったわけなのでしょうが

気づけば今は
40名でえらい少ないと感じて
50名で少なかったねえなんて感じるというのが

なんだか面白いなあと思いました

つまり

どうも僕らは多い少ないという感覚を持つけれども
実はその多い少ないというところの基準は
いつのまにか動いているわけで
つまり
多い少ないというのは
基準がいつの間にか動く以上決して当てになる感覚でもなくて
できたらそういう感覚からさっさと解放されて
端的に
出席者欠席者をも含めて
共に礼拝する兄弟姉妹が与えられていることを
それこそ
えらく
喜びたいし
喜ぶことができるし
実際に喜んでいるなあ

ということであるわけで

感謝感謝なのでありました


この前の礼拝は
20名以上のその日には会えなかった仲間のために祈ることのできる幸せを
味わうのでした

その幸せは
20名の十字架を共に引き受けることになる
という信仰の出来事と共に起こされます

人間側からの用語で言うならば
20名の困窮を共感することと共に起こされます

だから
礼拝は出席者と欠席者で成立するわけです



また

かつての30名よりも
今の60名のほうが
お互いの距離が近く
共に生きる家族という感触がある
ということが発見できるのも面白いなあと思います

人数は倍でも
会話と笑いの量は倍どころではなくて
へたしたら十倍になっていると思います

その背景には
日々
互いが互いのために祈る量も
倍以上になっていることがあると思います

数が少ないほうが交わりが濃い
というイメージがありますが

数の大小で交わりの深さが決まるわけでもないということも
あたりまえのことだけれども
ふと気づきまして

これも感謝感謝なのでありました

数の大小というのは
大小のどちらに意味を見出すにせよ
私たちを縛り付けますねえ!!

要注意!


ところで
実は毎年9月の前半は
風邪や怪我、精神の病などでお休みの人が多いことも発見しています

朝晩が急に冷えてくることと
花粉などで空気がにごることなどがあるのかなあと思っています

わたしも
かならず花粉にやられますし
クビや腰の古傷が痛み
ひどい年は阪神の赤星のようになってしまいます

だからこの時期は
マッサージやストレッチに毎日30分は費やすようにしています
それをするようになって
この4年は日常の生活と奉仕がなんとかできています

お互いに祈りつつ
注意しながら歩んでまいりましょう

また
病や怪我を背負う方々に
主イエスの癒しの手が差しのべられていることを宣言し
心からお祈りいたします