きぼう屋

生きているから生きている

ささげるという行為

2009年09月18日 | 「生きる」こと
昨晩
大阪の仕事を終えて帰宅しましたら
教会の玄関にお米が置かれておりました
10キロがふたつ

美しい字のお手紙が入っていました
お役に立ててくさだれば・・・
とのことです

感謝に耐えません

しかし匿名でしたので
直接感謝の気持ちを伝えられず
この場にて表したいと思いました

本当にありがとうございます


ささげるという行為は人間の最も人間らしい行為であり
最も高度な行為だと常々思っております

しかも
それが匿名でなされるというのは
さらに高度な行為です

つまり
極めて純粋に他者のためにささげてくださることであり
名を明かさないことで
感謝も含めて見返りを全く求めてないことであって
実はなかなかお目にかかれない高度なものだと思います

ささげるという行為なのに
見返りが求められることは極めて当たり前になっています

それは
ささげるということで
自身のアイデンティティを確保するという見返りや
イメージアップをはかるという見返りまで含みます

宗教では
神にささげると言いつつも
ご利益を求めることが常でもあります

そういうご利益から解放されているという
たとえばキリスト教会でも

献金や奉仕が
純粋にささげられるのではなくて
そこにめいめいの利益になる意味がくっつくことで

教会の交わりが窮屈になる例がたくさんありすぎます


おもしろいのは
キリスト教関係施設や付属幼稚園や施設から給料をもらっている人が多い教会は
そういう人が奉仕の中心になって
いわゆる発展することが起こりますが

そこから給料をもらうという事実がなかったらどうなるのか

問われ続けられねばなりません

案外もろいものです


さて

本日夜は市役所前炊き出しですが
ボランティアも
純粋にささげることができるかが勝負です

ボランティアが結局は自分のためだったというような美談はよく語られますし
それはまさにそうなのですが
しかし
その次として
そこからも解放され
純粋に他者のため
となるときにこそ

ボランティアという行為がはじめて光を放つだろうと思います



ところで
当教会は今年も11月3日にバザーをします

当教会のように
利益は教会や教会付属施設の運営費のためではなく
困窮する他者のために用いるというバザーは
実は少ないのですが

しかし地域の方々は
それを知っているから
こんなにも協力してくださっているのだと思います

バザーにおける純粋さを
できるかぎり今年も確保していきたいと思います



現在のところ地域の皆様から21件の献品を頂戴しました
まさにささげるという行為をいただいております
商品数は500くらいでしょうか

しかしこれからがシーズンでありまして
最終的には例年のように10,000点ほどの商品になることを期待しております

そして10,000のささげるという行為から慰めと励ましをいただくことになると思います
そしてそれを地域に還元したく願っております

地域のみなさま
今年もぜひともご協力をお願いいたします。


主イエスは
最も純粋にご自身のすべてを
ひとりひとりに
今日もささげておられます

アーメン
感謝