きぼう屋

生きているから生きている

愛します宣言

2008年10月16日 | 教会のこと
今朝はバプテスト病院と看護学校の
礼拝説教を担いました

病院スタッフへの説教は
有名な「善きサマリア人」の物語からのおはなし

「律法とは何か」

「隣人は誰か」
というふたつの問いの
本質が同じであり
両方でひとつである
というおはなし

世界とは何か
国とは何か
政治とは何か
教会とは何か
牧師とは何か
信徒とは何か
福音とは何か
信仰とは何か
神とは何か
病院とは何か
医者とは何か
医療とは何か
看護とは何か
生とは何か
死とは何か

これらについて
ぼくらは延々と議論を積み重ねているし
積み重ねなければならないわけですが

しかし
これだけでは実はまったくなにも生み出さないのです

生み出さないから
昨今は
「何か」に加えて「どうやって(HOW TO)」
という問いでもって解決したくなっている世の中ですが
でも
そうしたとて
なにも生み出さないのです

ぼくらは
「隣人とは誰か」
という問いを苦手とするから
言葉の響きとしても
次のもののなかに違和感を覚えるものがでてきます


しかし問わねばならないわけです

世界とは誰か
国とは誰か
政治とは誰か
教会とは誰か
牧師とは誰か
信徒とは誰か
福音とは誰か
信仰とは誰か
神とは誰か
病院とは誰か
医者とは誰か
医療とは誰か
看護とは誰か
生とは誰か
死とは誰か


死とは誰か
と問われるならば
ぼくらは
出会っている具体的な名前と顔とを想起するしかありません

その名前と顔の前で沈黙し絶句するしかありません

「何か」と問うときに言葉が多くなるのとは対照的に
「誰か」という問いは言葉を奪い取ります

ただ名前と顔の前で沈黙し
祈ります

これがみ言葉の前でしずまることでもあります

「誰か」
という問いが言語の響きとしてフィットするくらい
当然のこととなることを願いつつ・・・

というおはなし


看護学校の学生たちへの礼拝説教は
「人にして欲しいことを人にしなさい」
というイエスの言葉のおはなし

この言葉は聖書に触れていなくとも
ほぼみんなが
親や先生や先輩や友人などからいただいている言葉

しかしイエスはさらに
「愛してくれる人を愛しからってそれに何の意味があるの?」
「善いことをしてくれる人に善いことをしたからって何の意味があるの?」
と加えます。

つまり
「人にして欲しいことを人にする」
ということは
「愛してくれない人を愛する」
「善いことをしてくれない人に善いことをする」
というとんでもない命令なわけです

さて
我が家の近くの商店街が
「街に愛される商店街」
を一つの指標としていました

この手のことばはよく聞きます
「世界に愛される企業になろう」
「お客様に愛される店になろう」
「地域に愛される教会になろう」
「地域に愛される病院になろう」

つまりいくらでもでてくるのでキリがないわけですが
これつまり
今のわたしたちが
「愛されたい症候群」
になっているということだろうと思います

でも思います
思い切って
イエスの言うような方向に転換したらどうだろう!って

つまり
「我々商店街は街を愛します!」
「我々商店はお客さまを愛します!」
「我々教会は地域を愛します!」
「我々病院は地域を愛します!」

つまり
「愛されたい症候群」
から
「愛します宣言」
への転換が必要ではないかと思います

すると
「愛します」っていってくれるところには
人が集まるのではないかとも思います

身近な友人や先生に対してもそうです
愛されていない
気にかけてもらっていない
覚えてもらっていない
というのはとても苦しく悲しくさみしいことですが

でも
そんなときこそ
相手がこちらをどう思っているかということは問わず
端的に
「あんたはどう思っているかにかかわらずわたしは愛します」
と決断して宣言したら
その後の展開は大きく違ってくるはずです

「愛します宣言」
という
「人にして欲しいことを人にしなさい」
を生きていきたいものです

というおはなし