きぼう屋

生きているから生きている

感謝

2008年10月15日 | 「生きる」こと
嬉しいことが続いております

教会ではバザーやクリスマスのことを
わきあいあいと楽しく話し合い準備することができています
教会の仲間のこの積極さが教会を明るくしてくれていることに
感謝するばかりです。

今思うと
赴任当時のどんよりとした暗さは
この逆のことに積極的だったということなのだろうと
今だからわかります

当教会における歴史の最重要な事柄は
手話言語による信仰の交わりの形成ですが

20代の若者が
手話を積極的に学びはじめてくれて
通訳の奉仕も少しづつしてくれるのは
嬉しいというわたしの感情をはるかに超えた
キリストの喜びであることを信じます

これで20代と30代の手話通訳者が起こされたことになり
昨年天に召されたYさんの信仰が
まさに信仰が
そう信仰に生きるならばその信仰はかならず継承されるのですが
キリストによりしっかりと継承された
と信じることしかできません
嬉しくてたまりません

昨日までは
関西の牧師たちの修養会でしたが
ここでの交わりと分かち合いも
深いものでした

関西に来て驚いたのは
議論が極めて原理的で論理になっていない
ということでした

でも
不思議とそういう原理的な議論が無視されるかのように
実際に関西全体の教会の動きが与えられていきました

このあたりは
わたしの「社会」の動きについての考察を深めてくれている
ひとつの現象でもあります

しかし
ここにきて原理でもって手続きが支配され
関西の運動とそれに伴う金(活動費)の動きが
変化してきています
これはもちろん好ましくない方向にです

でも
昨日までの修養会では
原理でなく論理が語られました
脳みそでなく身体全体で語られていました

これは面白い傾向だと思いました

原理で運動を獲得したいほうも無意識ならば
それを無意識に感じて論理を組み立てるということも起こる
というのは

関西のバプテストが健康であるひとつの証拠だと思います

数字では決して表せない健康さです

だからこれまた嬉しくてなりません


さて京都では
現市長の門川さんが
その前の教育委員長時代に
とくにお金にかんしてとってもずるく悪いことをしていたことが
(自分のいうことを聞く教師に公費からお金をあげていました)
どんどんばれてきまして
地裁でも高裁でも
金を返すようにという判決が出まして
これまた嬉しいわけです

彼は
京都のタウンミーティングでのやらせでも負けるでしょうし
選挙のときに教育委員会のお金で自分の本を配るということをしたことでも
いずれ負けるでしょうし
上記の裁判も負けていますし

彼が悪人だとは思いませんが
こういうずるさはいけないのだということが
社会でしっかりと確認されるのは
大切だろうと思います


小学生の息子たちは
今日まで秋休みで
3人で自転車で鴨川を南方向に遊びに行っています
四男のために京都駅で新幹線の写真をとってくる
と意気込んでおりました

ひるごはんも3人でどこかで食べるのだそうです
だからそのお金を渡そうとしたら
自分たちの小遣いで食べるからいい!
ということで
なんともたのもしく嬉しいわけです


バザーの献品ももうしわけないくらい地域のみなさまから頂戴しております
すでにご寄付くださった方が50件となりました

心からお礼申し上げます



嬉しいことがたくさんあるなかでも
最近Oさんのお母さまが(たいへん高齢な方です)
礼拝にご参加くださるのですが
私どもを覚えてくださって
丁寧に手作りしてくださった折り紙などをプレゼントしてくださり
お母さまが費やしてくださった時間というか
物語に
涙があふれてきてしまいます

感謝に耐えません


また今晩の祈祷会は
以前当教会のメンバーだったさやかちゃんが来てくれて
チェロによる讃美の証をしてくれます
実はわたし
つい先日
東京への出張の帰りに
とある教会堂で
彼女のチェロ演奏を独り占めするという恵みをいただいてしまっておりますが

京都からドイツに旅立ち
日本に帰って東京でプロとして活躍されているわけですが

それはそれは
かつて京都にいたときももちろんすでにすごかったのですが
さらにさらに表現できないすごさが演奏から伝わりました

ご本人は素人からこんなん言われても困ると思いますが
しかししかし

嬉しくてたまらないわけです

とまあ
こんな感じのこのごろです

ではでは