きぼう屋

生きているから生きている

キリスト「教会」

2008年10月19日 | 「生きる」こと
今週の週報巻頭言です。

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「キリスト『教会』」

いよいよバザーまで二週間。
献品はこれまでに59件届きました。
配ったチラシの50分の1になります。
びっくりする数字です。
感謝です。

さて、バザーの目的は、
「福音を伝える」ことと
「神の愛による交わりを得る」ことです
(2003年当教会発行「バザーをつくる!」より)。

実は後者は前者に含まれることですが、
あえて独立させています。
前者のみだと、
本来「福音」が中心に持つ「交わり」の出来事を、
私たちは、
現代の思想感覚の中で、見失いがちだからです。

バザーは、
教会の交わりを、集まるみんなに見てもらう場です。
それは共に奉仕する寄り添いネット、NA,AAのみなさん、
ときどき教会に来られる方で、でもバザーのお手伝いは毎年してくださるみなさんなどに、
まず身近に見てもらえます。
さらに、買い物にくる大人と子どもが、
交わりを見て心あたたかくなる経験ができたら
どんなに嬉しいでしょうか。

だから真剣に祈ります。
神の愛が充満する交わりを経験できるように。
キリストが共におられることを確信できるように。

さて、
バザーには今年も止揚学園のみなさんが来てくださいます。
例年「交わり」を体現してくださり感謝に耐えません。

以前
止揚学園を教会のみんなで訪ねたとき、
福井理事長が語られました。
「止揚学園は、キリスト教精神による施設ではなく、キリスト教施設です」。

この言葉の意味するものは大きすぎるほどです。
歴史、思想を丁寧に学び、
さらに現場から問う中で、
はじめてうまれる言葉であろうとも思います。

つまり福井先生は、
神さまは「精神」以上に「信仰」を、
それはつまり、「内面」以上に、
それよりはるかに広い外側、つまり他者、世界があるからこその「交わり」を、
その具体的で不可欠なものとして「教会」を、
私たちに与えてくださっている!
という事実を
見失ってはならない!
というみ言葉を語ったのだろうと思います。

バプテストの学校、
西南学院の寺園喜基院長より、
新しい著書を頂きました。
それは院長による学院広報誌巻頭言や、
入学式、卒業式挨拶などが収録されたものです。
学びつつ楽しく読ませて頂きました。

そこには通奏低音がありました。
それは「教会」です。
直接表現はなされていませんが、
「交わり」という大前提のない文はひとつもありません。
さらに言うなら、
キリストを語るときは、「交わり」を受ける、
ということでもあります。

つまり、西南学院というミッションスクールは、
キリスト「精神」ではなく、キリストそのもの、
つまり「教会」を中心に置くことを死守しているわけです。

これはクリスチャンの学院関係者の多くが
具体的に教会の交わりに責任的に生きていることからもうかがえます。

このことは
日本バプテスト医療団と深い関係にある私たちの指針ともなります。
私たちは医療団にかかわるクリスチャンが、
具体的な教会を責任的に負うことにこそ、
「精神」を超えた「キリスト」の力が
医療団に充満することを、知るのだと思います。

また医療団のある地に立つ教会は、
「精神」でなく「キリストそのもの」を
生々しく受けている教会であるからして、
「交わり」が生々しくまた深い「教会」であり続ける必要があります。

「精神」は時代と共に廃れます。
「教会」は永遠に存続します。

キリスト施設も、
どこに立つかで、廃れもするし存続もすると思います。

さらに、実は教会もまた、
「精神」に立つのみとなると廃れるし、
「交わり」を担うと、そこでこそ永遠の命となります。

今の時代、
「精神」でキリスト「教」を求める人はあまりいないと思います。
巷には、
「精神=内面」を語るわかりやすい言葉が、
(わかりやすい=ただしい、ということではありませんが)
氾濫しているからです。

でも
「交わり」としてキリスト「教会」を求める人は、
必ずたくさんいるはずです。
孤独という病理が地球規模ではびこっている時代だからです。

だから、
わたしたちはバザーをします。
ぜひ共に。