きぼう屋

生きているから生きている

献品を受けて

2008年10月26日 | 教会のこと
今週の京都教会週報巻頭言です。

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「献品を受けて」

さて、いよいよ本日午後は
バザーの準備をみんなで行います。
キリストと共に、仲間と共に、
奉仕したく願います。

献品が77件届きました。感謝するばかりです。
私は、献品を下さる方と少しお話することがありますが、
そのお話が、私を祈りへと導く場合があります。

それは、献げてくださった品の歴史における、
時と場所と人を
幾分か知ることによってです。

つまり献品と一緒に、
品の背景の歴史全体も頂く出来事が起こります。

とりわけ、
結婚して家を出る娘さんの品とか、
死別した夫の品とか、
廃業して捨てるに捨てられない品
という物語は、胸を打ちます。

だから私は、
その品をめぐる物語をおのずと想像します。
それはほとんど架空の物語と結果的になるのですが、
しかし、
いのちと世界を豊かにするということにおいては、
より正確な箇条書きの歴史記述よりも、
力を発揮するだろうと思います。

それは、福音の物語だと思います。

そう言える鍵は、
「献げもの」である
というところにあります。

当教会のバザーは、
リサイクルショップのように、お金と交換しているわけではありません。
一方的に献げられています。

おそらく献品して下さった方は、
そこでお金と等価交換してもらったら困るのだと思います。
それでは、その方々の背負う歴史と存在が生かされないのだと思います。

このあたりのことは言葉で表現するのはむずかしいのですが、
しかし真理です。

歴史と存在が生きる場所というのは、
一方的な献げものにより、他のものには変換されない
という
地点にあるのではないでしょうか。

私は、献品を通して、
一方的な恵み、
すなわちキリストによる罪人である私たちの引き受け
という一方的な出来事こそ、
私たちの歴史と存在を生かす!ことを
もう一度学びました。

そして、そういう一方的な恵みを受けた者は、
一方的に「献げる」者とされるところで、
なお真実に生かされるのだ!
と確認し、
主に感謝する時を持っています。

さて、今週は毎日バザーの準備ができますから、
その間に
少しでもこういう献品たちと出会っていただけたらとも願います。

祈りつつ、バザーにむけて備えましょう。