きぼう屋

生きているから生きている

「私のからだ」からの脱出

2007年04月25日 | 教会のこと
4月22日の京都教会週報巻頭言です。

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今年度私たち京都教会は、
「キリストのからだ」
というテーマを頂いています。

私たちみんなの生命、人格、精神、魂のすべては
「キリストのからだ」
として成立しています

決して
「私のからだ」
として成立することはできません

もし神を信じるというときに
神と自分のつながりのみを求めるなら
それによって神とのつながりを得ることは出来ません

人は
こういう感覚のとき神とつながった気になりつつ
実際は自分とつながっているだけだったりします

そこでは
「私にからだ」
として成立した気になって
なにも成立していないという
ふわふわしている現象を味わうことでしょう

もし神を信じるというときに
牧師と自分のつながりを大切にしようと思うなら
それは無論
牧師という人間を利用できるものの
神とのつながりは得ていません

いいところ
「私のからだ」
という成立していないけど成立していると思い込んでいるものを
維持することができるだけでしょう。

ならば
神とつながるというのは
どのようなかたちなのでしょう

こんなかたちかなあと思います

私たち世界中の生命みんなが
網の目のように縦横無尽につながり
そのどれひとつが切れても
そこから網が破けるような

そういうつながりを求めるとき

まさにキリストが破れる一つ一つの糸を
十字架という出来事で繕いつつ
つなげ続けてくださる出来事に出会い

そこで神とのつながりを知ることになるでしょう

これをパウロは
「キリストのからだ」
と呼んでいるのではないでしょうか。

実は私たちは端的に
他者との出会いを神から与えられ
その他者とのかかわりの中で
間におられるキリストと出会うという仕方で
キリストを知り
そのキリストによって他者とつながることを
信じるのだと思います

だからその
「キリストのからだ」
のための生き様というものを
神から示されるわけでもありましょう

ぜひとも京都教会は
「キリストのからだ」
を選び取りましょう

自分と神とのつながりとか
自分と牧師とのつながりという
「私のからだ」
という
人間的感覚から解放されつつ・・・