きぼう屋

生きているから生きている

「答え」から「応え」へ・・・神との道

2007年04月29日 | 教会のこと
4月29日の京都教会週報巻頭言です。

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5月3日は現憲法60周年。
しかし、憲法は変えられそう。
戦争や国としての人殺しができるものへ。

たった62年前まで、
身近な者が戦死する悲痛の中で、
そこから解放されることを願い、
せっかく戦争放棄を謳う憲法を手に入れたのに。
なぜ?

戦争時代の歴史をめぐる言論の特徴に私はこわくなる。
それは事実という「答え」を提示して終わりだから。

あらゆる生命が瞬間瞬間を生き、かかわり合う歴史に
「答え」はでないはず。
そこでは
ただ「応え」ることで
歴史と共に歩むことのみがあるのに。

私たちが戦争の悲痛に応え、
その悲痛も私たちに応える
このやりとりを繰り返す中でのみ、
歴史は生きる。
「答え」は逆に歴史を殺す。

本日午後、
私たちは教会の古い写真を共に整理する。
これは歴史に応え、歴史が応える欠かせない恵みの時。

教会60周年に向け歴史を振り返る時、
私たちが「答え」を見出そうとするなら誤るだろう。
また歴史解釈方法で苦労するにとどまるだろう。

しかし教会の歴史の物語、先輩方の物語が、
生々しく届き、
それに応え、さらに応えられることが繰り返されるとき、
教会の歴史は生きる。

私たちの神は生きる。
そして私たちは神を殺してはならない。

祈りで神を殺してはならない。
祈りで「答え」を求めてしまう時は、
神が殺される時。

祈りで神の愛に応え、
さらに神が応える中に、
信じて身を置く時は、
神が生々しく生きる時。

聖書で神を殺してはならない。
聖書からなんらかの「答え」を求める時は、
その原理(答え)が神を殺す時。

聖書という神の言葉に応え、
つまり具体的行動が生まれ(「応え」は英語ならリ・アクション)、
さらに神が応えることの繰り返しの中で、
私たちは生きた神と出会い続ける。

「答え」でなく「応え」こそ私たちの恵み。

これが身体に染みつくか否かは
世界が平和か否かということと言っても
過言ではない。

そして
神はいまもここで
私たちに応え続ける。
私たちも
神に応え続けることがゆるされている。