きぼう屋

生きているから生きている

受難週 十字架 絶望 希望

2007年04月02日 | 教会のこと
受難週
キリストの十字架を深く覚える
十字架で深くえぐられる故に

十字架の出来事を
あっさりと一言で片付けてしまうきわめてよろしくない伝統が
教会にあるのが不思議

キリストは私たちの罪のために十字架で死なれた。
だから私たちは救われた

というもの

十字架の出来事をこんな原理にしてしまうのは
最大の罪

十字架

なぜ俺を見捨てるのか
という神への叫び

絶望

われわれはこのキリストの絶望を通して
自らの絶望を知る
自らの絶望を知り、それを担いきれないことがさらなる絶望であることを知り
キリストがその絶望を担うことを信じる

われわれはこのキリストの絶望を通して
世界に転がる絶望を知る
その絶望を担いきれない自らにさらに絶望し
キリストがその絶望を担うことを信じる

なにを言ってるんだか
という文章になってしまうが

絶望を絶望として知ることができること
絶望を知ることが出来ないという絶望でないところの絶望に溺れないでいいということ

ただただ
神は俺を見捨てるのか
と問うしかない
絶望

これが十字架
この十字架の場所に立つことができるなら

天幕は裂け
岩は割れる

その裂け目から
神の国が
やってくる

そのとき

神は俺を見捨てるのか
と叫びつつ死んだ者は
すでに
墓の中で喜び踊る

神の国が来る!!と

絶望を生きることを選び取る者は希望を生き
絶望を生きることを選び取れない者は希望を生きない