あれから2年 入学式雑感
第二子が小学校に入学した。
先週入学式があった。
第一子入学から2年。
教育基本法が腹黒さをかかえるものへと変わり
憲法も同種のものへ変えられる体制が整いつつあり
入学式もそれと歩みを同じくして変わるのか
と思っていたが
2年前と全く変わっていなかった。
仰々しい金屏風に日の丸
形式ばったプログラム
魂の抜けたことばがゆれる君が代
魂こもった校歌
さらには
校長の話までまったく同じ
PTA会長のあいさつも人が変わったはずなのに同じ
それはどれも極めて単純なスローガンの連呼
そして誇張表現の多さ
「とっても」「すごく」「すばらしい」
実に見事に洗脳言語が並んだと言える
2年前と同じことを大きな声で言わねばならない。
子どもたちは洗脳言語があふれる現場に通わねばならないのだ。
しかしありがたいのは
あれだけ大勢の子どもと教師が集まっている場所では
どんなにお上が洗脳言語で統率したかろうとも
人と人が単純に共にいるという
変えようのない人間らしい姿が
洗脳体制が表にあらわれるのを阻害するだろうし
またちゃんとわかっている教師も親もいる。
僕みたいに真正面から抗うスタイルの人もいれば
お上との関係の中でしたたかに抗うスタイルの人もいる。
子どもたちは
洗脳言語と
仲間と共に在るという物語の言語との
はざまで生き
そのどちらを最後に選ぶかというのは
つまりは、仲間と一緒に喜んだり泣いたりということをどれだけできたか
にかかってくるのだろう。
もし孤独にすごしたら
洗脳言語を選ぶしかないから
僕らのやるべきことはただひとつ
子どもたちの関係性を深くさらに深くすることに協力することだ。
教育をめぐる大状況はますます薄気味悪くなる。
しかし個々の現場は希望を持つ。
この有名な
文科省や教育委員会お墨付きの実験小学校でさえ
薄気味悪いものを吹き飛ばす人間と人間との出会いの物語はたくさんある。
そうだ
2年前と違うものもあった
それは
壇上にあがる人たちが日の丸に対して礼をする時間の長さと頭を下げる深さ
短くなり浅くなっていた
こういうところに本質があらわれる。
たぶんこういう文書が出回ると今度からは長く深くなるだろうけど
もう本質はばれてしまったと言っていいだろう。
それにしても校長の話の意味のなさは
どうにかならないか。
かがやきの「か」は「考える子」の「か」
かがやきの「が」は「がんばる子」の「が」
かがやきの「や」は「やさしい子」の「や」
かがやきの「き」は「鍛える子」の「き」
だそうだ。
そもそも「考える子」というくらいなら
校長がちゃんと講話を考えるべきだろう。
このよっつの共通点は何か。
それは、自分がどうやるか!ということだけということ
人と人とが出会い交わる現場である学校なのに
「他者」が消えているのが特徴
ぼくだったらどうするかなあ。
そもそも「かがやき」なんていう標語にはしないけど・・・
仕方なくこれでやるなら
かがやきの「か」は「感謝感激だらけの仲間」の「か」
かがやきの「が」は「がむしゃらに一緒に居続ける仲間」の「が」
かがやきの「や」は「やかましく遊び意見交換しあう仲間」の「や」
かがやきの「き」は「気兼ねは無用な仲間」の「き」
ってところかなあ・・・
いやあ、まだこれじゃああまいなあ・・・
うーん。
わが第二子よ
お兄ちゃんといっしょに
今日も楽しくいってらっしゃい。
ちなみに2年前の入学式雑感は
わたしがはじめてということもあって
気合も入っているこういうものです。
↓
入学式雑感
いよいよ第1子が小学生。入学式に行った。嫌な意味で緊張した。わかってはいたが、日の丸、金屏風の圧力は、相当なものだった。意味のわからないもの、そう、例えばおばけと遭遇しているかのような、そんな緊張だった。
校門で身を縮めて、このような状況に反対するビラを配っておられたご婦人の姿が、脳裏にあらわれる。救われたような気がした。あの世界も同時にあるわけだから、おばけをじっくり観察するか・・・。
「起立、礼」。式が始まる。何に礼をしているのか。説明はない。そして、間髪いれず君が代。なるほど、立ったままの状態で、君が代となるわけだ。立った状態から座るのは、座った状態のまま立たないこととは桁違いの力がいる。これも、お上からの指導によるものなのか。座らなかった。立ったまま、周りをよく見てみた。何人か歌わない教師もいるだろう・・・。いなかった。また変な緊張が走った。・・・ただ、僕が歌っていない人を見つけられなかっただけ・・・。そこに託してみる。上級生が見事に君が代を歌う。大きな口をあけて、大きな声で。しかし!嬉しかった。なんとも魂のこもらない歌とはこのこと!ただ歌っているだけ。君が代が上滑りしている印象を受けた。だから短期的な洗脳はないだろう。がしかし、長期的に慣習として身にしみることはあるだろう、とも思った。
校長の話がはじまる。NHKスペシャルにも取り上げられた、全国的に有名な小学校。あるいは、公立の実験校。そこの校長だけに期待した。・・・が・・・。「考える子」「がんばる子」「やさしい子」「きたえる子」になれ!という話だった。そして頭文字をとって「がかやき」だという。話の内容は極めて単純な優性思想。しかし倫理の中身が語られることはなく、賢く強い子がよい!という枠しかない。しかも何のためにそういう子になるのかという、目的も語られない。また、この4つの倫理も、「かがやき」に無理やりあてはめた感もあるほどに、練られていない。またもや、おばけと遭遇したような感を持った。目的も中身もなく、宙に浮いている倫理的な教訓。意味のない言葉。それはまさにおばけ。さらにおどろいたのは、「新一年生はすごい!すばらしい!」を連発していたこと。「すごい」「すばらしい」という、抽象的で、でも気分が良くなる言葉の連発ほどに、意味のない、しかし、人々を不思議な雰囲気に持っていくおばけ的なものはないのかもしれないと思った。いったい校長は新一年生の何を知っていて、すごいとか、すばらしいと言うのだろう?少なくとも、僕のところの第1子や、僕の教会に関わっている子どもたちについて、そんな安価な判断をされても本当に困る。別に、すごくなってほしくもなければ、すばらしくなってほしくもない。具体的に歴史を生きている者として、歴史を生きてほしいだけ。主の十字架が乱立する歴史の只中を。
PTA会長の話が続いた。京都の文化と伝統を、街をあげて学ぶことができるすごい学校とのこと。そして「ありがとう」の言葉と、元気に居ることが友だちを作るという倫理。ここでも、倫理。背筋が冷たくなるのを感じた。道徳、倫理しか語られないのは何なのか。しかも、友だちを作るのは「ありがとう」の言葉なのか。元気でいないと、友だちはできないのか。大変だあ!と思った。脅しやなあ!と思った。僕は、僕がかかわる子どもたちに、全身全霊で同級生たちとぶつかるなかで、ちゃんとつまづいて、ちゃんと限界を知って、お互いの違いが違い以上のなにものでもなく、しかしその違いを担い合って、ちゃんと共に生きる友達をつくることができることを、叫んでいこう。それはつまり、主によって出会った先生や同級生は、なんとしても愛していきたい!というところで、友だちは友だちとなることを、伝えていこう。
校長とPTA会長の話の共通点は、「歴史」が語られていないこと。具体的な、事実と真実とを含んだ歴史が無視されているということ。つまり、中身と目的のすべてが無視されているということ。だから、残っているのは倫理・道徳だけ!ということ。中身のない倫理、すなわちそれは、カタチにはめること以外のなにものでもない。そしてカタチにはめるための、抽象的ながら、気分のいい言葉が並べられる。「すごい」「すばらしい」「伝統」「文化」。つまり、おばけが並んでいる。そうだ。いま、子どもたちは、おばけを教育されるわけだ。時代状況のなかで、その歴史の意味を問うことなく、なんとなく気分のいい雰囲気に流れることができるような、しかも、その気分のいい雰囲気が真実であり、真理であると言ってしまうところの、そういうおばけを身につけようとしている・・・。
おばけを身につけたら、おばけになっちゃうよ。おばけになったら、人間のこと、いのちのこと、人格のことなんか、わからなくなっちゃうよ。さあ、おばけ退治をしなきゃ。
何で退治する?それは校長とPTA会長が教えてくれた。彼(女)らは、気持ちのいいこと、楽しいこと、嬉しいことだけを語った。そう、おばけは、そこでしか生きられないから。だから、僕らはちゃんと見よう。ちゃんと聞こう。ちゃんと語ろう。この世界に転がる、そして子どもたちの精神にも転がる、痛み、苦しみ、悲しみなどを。おばけはこれが一番嫌い。でも、世界中の痛み、苦しみ、悲しみを、全部掘り起こすくらいの勢いで、そしてその痛み、苦しみ、悲しみを、つまりそういう証言をあつめて、「歴史」を盾にして、おばけを退治しよう!「具体的」な証言で、「抽象的」な心理的雰囲気を退治しよう!それはつまり、主の十字架の前に立ち、そこにいる主の証言を、自らの告白とさせていただくなかで、主以外の力と真向かうということ。主よ!来てください!
愛する第一子。きっとおばけと人間のはざ間にある学校で生活するわけだけど、その現場で生きるからこそ、そのはざ間を瞬時に見抜けるような、そういう力を、せっかくだから養って欲しい。教科書にかじりつく必要もなければ、跳び箱や鍵盤ハーモニカにかじりつく必要もない。あなたは、あなたが今まで、僕やみんなにしているように、同級生や先生たちみんなをじっくり見て、じっくり聞いて、いつも僕にしてくれるように、応答してくれたらいい。そのひとつひとつの向かい合いの中心に主がいるから。その向かい合いの繰り返しこそ、あなたの「歴史」になるから。そして「歴史」が「いのち」「人格」となるから。もちろん主によるところの。
第二子が小学校に入学した。
先週入学式があった。
第一子入学から2年。
教育基本法が腹黒さをかかえるものへと変わり
憲法も同種のものへ変えられる体制が整いつつあり
入学式もそれと歩みを同じくして変わるのか
と思っていたが
2年前と全く変わっていなかった。
仰々しい金屏風に日の丸
形式ばったプログラム
魂の抜けたことばがゆれる君が代
魂こもった校歌
さらには
校長の話までまったく同じ
PTA会長のあいさつも人が変わったはずなのに同じ
それはどれも極めて単純なスローガンの連呼
そして誇張表現の多さ
「とっても」「すごく」「すばらしい」
実に見事に洗脳言語が並んだと言える
2年前と同じことを大きな声で言わねばならない。
子どもたちは洗脳言語があふれる現場に通わねばならないのだ。
しかしありがたいのは
あれだけ大勢の子どもと教師が集まっている場所では
どんなにお上が洗脳言語で統率したかろうとも
人と人が単純に共にいるという
変えようのない人間らしい姿が
洗脳体制が表にあらわれるのを阻害するだろうし
またちゃんとわかっている教師も親もいる。
僕みたいに真正面から抗うスタイルの人もいれば
お上との関係の中でしたたかに抗うスタイルの人もいる。
子どもたちは
洗脳言語と
仲間と共に在るという物語の言語との
はざまで生き
そのどちらを最後に選ぶかというのは
つまりは、仲間と一緒に喜んだり泣いたりということをどれだけできたか
にかかってくるのだろう。
もし孤独にすごしたら
洗脳言語を選ぶしかないから
僕らのやるべきことはただひとつ
子どもたちの関係性を深くさらに深くすることに協力することだ。
教育をめぐる大状況はますます薄気味悪くなる。
しかし個々の現場は希望を持つ。
この有名な
文科省や教育委員会お墨付きの実験小学校でさえ
薄気味悪いものを吹き飛ばす人間と人間との出会いの物語はたくさんある。
そうだ
2年前と違うものもあった
それは
壇上にあがる人たちが日の丸に対して礼をする時間の長さと頭を下げる深さ
短くなり浅くなっていた
こういうところに本質があらわれる。
たぶんこういう文書が出回ると今度からは長く深くなるだろうけど
もう本質はばれてしまったと言っていいだろう。
それにしても校長の話の意味のなさは
どうにかならないか。
かがやきの「か」は「考える子」の「か」
かがやきの「が」は「がんばる子」の「が」
かがやきの「や」は「やさしい子」の「や」
かがやきの「き」は「鍛える子」の「き」
だそうだ。
そもそも「考える子」というくらいなら
校長がちゃんと講話を考えるべきだろう。
このよっつの共通点は何か。
それは、自分がどうやるか!ということだけということ
人と人とが出会い交わる現場である学校なのに
「他者」が消えているのが特徴
ぼくだったらどうするかなあ。
そもそも「かがやき」なんていう標語にはしないけど・・・
仕方なくこれでやるなら
かがやきの「か」は「感謝感激だらけの仲間」の「か」
かがやきの「が」は「がむしゃらに一緒に居続ける仲間」の「が」
かがやきの「や」は「やかましく遊び意見交換しあう仲間」の「や」
かがやきの「き」は「気兼ねは無用な仲間」の「き」
ってところかなあ・・・
いやあ、まだこれじゃああまいなあ・・・
うーん。
わが第二子よ
お兄ちゃんといっしょに
今日も楽しくいってらっしゃい。
ちなみに2年前の入学式雑感は
わたしがはじめてということもあって
気合も入っているこういうものです。
↓
入学式雑感
いよいよ第1子が小学生。入学式に行った。嫌な意味で緊張した。わかってはいたが、日の丸、金屏風の圧力は、相当なものだった。意味のわからないもの、そう、例えばおばけと遭遇しているかのような、そんな緊張だった。
校門で身を縮めて、このような状況に反対するビラを配っておられたご婦人の姿が、脳裏にあらわれる。救われたような気がした。あの世界も同時にあるわけだから、おばけをじっくり観察するか・・・。
「起立、礼」。式が始まる。何に礼をしているのか。説明はない。そして、間髪いれず君が代。なるほど、立ったままの状態で、君が代となるわけだ。立った状態から座るのは、座った状態のまま立たないこととは桁違いの力がいる。これも、お上からの指導によるものなのか。座らなかった。立ったまま、周りをよく見てみた。何人か歌わない教師もいるだろう・・・。いなかった。また変な緊張が走った。・・・ただ、僕が歌っていない人を見つけられなかっただけ・・・。そこに託してみる。上級生が見事に君が代を歌う。大きな口をあけて、大きな声で。しかし!嬉しかった。なんとも魂のこもらない歌とはこのこと!ただ歌っているだけ。君が代が上滑りしている印象を受けた。だから短期的な洗脳はないだろう。がしかし、長期的に慣習として身にしみることはあるだろう、とも思った。
校長の話がはじまる。NHKスペシャルにも取り上げられた、全国的に有名な小学校。あるいは、公立の実験校。そこの校長だけに期待した。・・・が・・・。「考える子」「がんばる子」「やさしい子」「きたえる子」になれ!という話だった。そして頭文字をとって「がかやき」だという。話の内容は極めて単純な優性思想。しかし倫理の中身が語られることはなく、賢く強い子がよい!という枠しかない。しかも何のためにそういう子になるのかという、目的も語られない。また、この4つの倫理も、「かがやき」に無理やりあてはめた感もあるほどに、練られていない。またもや、おばけと遭遇したような感を持った。目的も中身もなく、宙に浮いている倫理的な教訓。意味のない言葉。それはまさにおばけ。さらにおどろいたのは、「新一年生はすごい!すばらしい!」を連発していたこと。「すごい」「すばらしい」という、抽象的で、でも気分が良くなる言葉の連発ほどに、意味のない、しかし、人々を不思議な雰囲気に持っていくおばけ的なものはないのかもしれないと思った。いったい校長は新一年生の何を知っていて、すごいとか、すばらしいと言うのだろう?少なくとも、僕のところの第1子や、僕の教会に関わっている子どもたちについて、そんな安価な判断をされても本当に困る。別に、すごくなってほしくもなければ、すばらしくなってほしくもない。具体的に歴史を生きている者として、歴史を生きてほしいだけ。主の十字架が乱立する歴史の只中を。
PTA会長の話が続いた。京都の文化と伝統を、街をあげて学ぶことができるすごい学校とのこと。そして「ありがとう」の言葉と、元気に居ることが友だちを作るという倫理。ここでも、倫理。背筋が冷たくなるのを感じた。道徳、倫理しか語られないのは何なのか。しかも、友だちを作るのは「ありがとう」の言葉なのか。元気でいないと、友だちはできないのか。大変だあ!と思った。脅しやなあ!と思った。僕は、僕がかかわる子どもたちに、全身全霊で同級生たちとぶつかるなかで、ちゃんとつまづいて、ちゃんと限界を知って、お互いの違いが違い以上のなにものでもなく、しかしその違いを担い合って、ちゃんと共に生きる友達をつくることができることを、叫んでいこう。それはつまり、主によって出会った先生や同級生は、なんとしても愛していきたい!というところで、友だちは友だちとなることを、伝えていこう。
校長とPTA会長の話の共通点は、「歴史」が語られていないこと。具体的な、事実と真実とを含んだ歴史が無視されているということ。つまり、中身と目的のすべてが無視されているということ。だから、残っているのは倫理・道徳だけ!ということ。中身のない倫理、すなわちそれは、カタチにはめること以外のなにものでもない。そしてカタチにはめるための、抽象的ながら、気分のいい言葉が並べられる。「すごい」「すばらしい」「伝統」「文化」。つまり、おばけが並んでいる。そうだ。いま、子どもたちは、おばけを教育されるわけだ。時代状況のなかで、その歴史の意味を問うことなく、なんとなく気分のいい雰囲気に流れることができるような、しかも、その気分のいい雰囲気が真実であり、真理であると言ってしまうところの、そういうおばけを身につけようとしている・・・。
おばけを身につけたら、おばけになっちゃうよ。おばけになったら、人間のこと、いのちのこと、人格のことなんか、わからなくなっちゃうよ。さあ、おばけ退治をしなきゃ。
何で退治する?それは校長とPTA会長が教えてくれた。彼(女)らは、気持ちのいいこと、楽しいこと、嬉しいことだけを語った。そう、おばけは、そこでしか生きられないから。だから、僕らはちゃんと見よう。ちゃんと聞こう。ちゃんと語ろう。この世界に転がる、そして子どもたちの精神にも転がる、痛み、苦しみ、悲しみなどを。おばけはこれが一番嫌い。でも、世界中の痛み、苦しみ、悲しみを、全部掘り起こすくらいの勢いで、そしてその痛み、苦しみ、悲しみを、つまりそういう証言をあつめて、「歴史」を盾にして、おばけを退治しよう!「具体的」な証言で、「抽象的」な心理的雰囲気を退治しよう!それはつまり、主の十字架の前に立ち、そこにいる主の証言を、自らの告白とさせていただくなかで、主以外の力と真向かうということ。主よ!来てください!
愛する第一子。きっとおばけと人間のはざ間にある学校で生活するわけだけど、その現場で生きるからこそ、そのはざ間を瞬時に見抜けるような、そういう力を、せっかくだから養って欲しい。教科書にかじりつく必要もなければ、跳び箱や鍵盤ハーモニカにかじりつく必要もない。あなたは、あなたが今まで、僕やみんなにしているように、同級生や先生たちみんなをじっくり見て、じっくり聞いて、いつも僕にしてくれるように、応答してくれたらいい。そのひとつひとつの向かい合いの中心に主がいるから。その向かい合いの繰り返しこそ、あなたの「歴史」になるから。そして「歴史」が「いのち」「人格」となるから。もちろん主によるところの。