つれづれ読書日記

SENとLINN、二人で更新中の書評ブログです。小説、漫画、新書などの感想を独断と偏見でつれづれと書いていきます。

いろいろな顔

2006-12-24 17:54:46 | 小説全般
さて、とりあえず図書館にあったのでまたの第754回は、

タイトル:愛はひとり
著者:姫野カオルコ
出版社:集英社 集英社文庫(初版:H11 幻冬舎刊初版:H7)

であります。

図書館に、と言いつつも三部作のあと1作がないので別のばっかり読んでるよなぁ。
とは言え、これもまただいぶん毛色の違う作品を5編収録した短編集。
例の如く各話ごとに。

「夢みるシャンソン人形」
文筆業で生計を立てている私。
ひとりである私は、目を覚ましてから多機能電話機の#を押して、合成音声の時刻を聞く。
起きて食事をしたり、思い立ってコンビニへ行ったり、冷え性が酷くて裸足でいられない自分とは違う、裸足でパンプスを履ける女に嫉妬したり、そして高志のことを考えたりする、ひとりである私の生活。

「つけぼくろ」
男の人は女の人のミステリアスな部分に惹かれる。
他愛ないミステリアスに女性性を見る他の女の人たちとは違う、理路整然とした私。
だから諦めを持って接する男性たち……そんなときに時々ちょっとした立ち話をする読売新聞の配達の青年にもひとりきりの心は、最後には諦めに傾く。

「しかし、まだ旅は続く」
駅前に乾電池を買いに行った帰り、よく乗るが決まった区間しか乗らないきいろい電車。
「ペペ・ル・モコ」という名前の男が登場する映画のことを思い出せない私は、何気なくきいろい電車に乗っていつもは行くことのない場所へ短い旅をする。

「水の中の環」
できたばかりのビルの最上階にある会員制のフィットネスクラブ。
そのプールで泳ぐ私は優秀な占い師である。
いつもの時間、ほとんど泳ぐ会員のいない時間、見かけるのはいつも白い水着を着た女のひとと、監視員の青年だけ。

ひどく関係を匂わせるふたりと、占い師であるためにひとりでいる私。
いつかの日、ふたりは私に見せつけるように、存在していないかのように睦み合う媚態を見せる。

「ジュテーム・モワ・ノン・ブリュ」
ある場所、ある部屋でαとβと名乗ったふたりは、ウォッカライムを傾けながら語り合う。
景色、食べ物、昔放映されていた番組のこと……。
#を押して合成の声を聞かないためにαは語る。

う~む……、ストーリー紹介を書いていて、はっきり自分でもどういう話なのか、まったくわからん……(爆)
著者あとがきに「主題や、ストーリーの展開や、それから意味や、そういうことはあんまり考え込まずに、気分で読んでもらえれば、と願う。」とあるが、まさにそのとおりであろう。

ストーリー性はかなり薄い。
一貫した物語と言うよりも最初の「夢みるシャンソン人形」の「私」のように「ひとりである」主人公の女性たちの姿を感じる、と言う読み方がふさわしい。
文章も、以前に読んだ三部作の2冊や「バカさゆえ・・・。」のようなものではなく、散文詩の装いを持っていて、具体の物語として読むことを困難にしている。
ただ、そうした散文詩の装いが逆に「感じる」ためには有効に働いているとは思うので、作品の雰囲気にはとても似合っている。

個人的にはより散文詩の匂いが強い「夢みるシャンソン人形」や、著者らしいエロティシズムが色濃く感じられる「水の中の環」がおもしろい、かな。
「つけぼくろ」は、三部作の主人公たちに似た女性像が描かれていて、「またこのタイプかいな」と思えてしまうところがマイナスかな。

しかしまぁ、これを読んで思ったけど、この著者の引き出しは多いねぇ。
滑稽にさえ見えるほどにがんじがらめの女性を描いた三部作、妙な感性で笑いを誘うパロディ、そして感性に極めて依存する散文詩的な本作。
三部作は同種だからひとつとしても、これだけ違う物語、文章、作風がありながら、やはり著者らしさを失わない作家は珍しい。

ただし、本作に限って言えば感性依存が強い作品だけに、読むひとをかなり選ぶだろう。
いろいろと意味づけることは可能だが、そうした読み方をするには苦労が多いだろうから、個人的には雰囲気に溢れていておもしろい短編集で良品だと思うが、誰にでもオススメというわけにはいかない。