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旅路 とまりぎ

いくつかのグループでのできごと(主に旅)

南柏

2009年09月15日 | 仲間

                      南柏

                                   とまりぎ

  酒豪氏の実母が亡くなられたとの知らせを受け、常磐線の南柏駅から近くの斎場へ向う。とまりぎ仲間のほとんどが通夜へ参列したとのこと。告別式へは幹事と消防さんがこられた。

  南柏駅は東口に店が多く、帰りに三人で献杯した。


人形町

2009年09月14日 | 歴史

                    人形町

                                  とまりぎ

 営団地下鉄日比谷線、都営地下鉄浅草線の人形町、営団地下鉄半蔵門線の水天宮が近い。あるいは都営地下鉄浜町からもそう遠くない。

たしかに便利になったが、都電がなくなって地下鉄ができるまでの間は都バスが補っていたのだが、バスでは補いきれなかったのだろう、この街へ来る人の数は減った。落語の末広亭もとうにない。

 商店主は店が住まいになっていたのだが、営団地下鉄日比谷線が開通すると北千住から東武線乗り入れになり、店は人形町にして、その沿線へ住まいを移した人が多かった。
当然のように学齢期の子供たちの数は減って、小学校は統合され数が減った。

 昔ほどではないが、活気を取り戻す力になったのが、成田空港から海外へ出る人のための箱崎ターミナルの存在だろう。これによってホテルもでき、地下鉄がいくつも通るようになった。浜町駅からは明治座がすぐそばだが、この存在も大きい。
人形町の甘酒横丁を通っていく人も多いからだ。

 住民が減って会社が増えたため、有名な濱田家はあるし、芳町に残ってはいるが料亭が減って、サラリーマンのための店が増えた。このバランスが実はサラリーマンを呼び寄せることになって、若干高めの料金だと思うのだが、暗くなると案外客の多い店がある。これからの再発展に期待。


千歳烏山にて

2009年09月11日 | 歴史

                     千歳烏山にて

                                                         とまりぎ

  選挙期間中の休日、通りかかった千歳烏山で偶然のことであった。

 

  黒塗りの高級車が三台ほど停まって、降りてこられ、すぐに演説となった。

 

  暑い日だった。

 

 

  


府中

2009年09月10日 | 商店街

                       府中

                                とまりぎ

  多摩川是政橋のすぐ近くに、西武是政線の終点是政駅がある。将来構想ではここからモノレールが多摩ニュータウンの尾根を通るそうだが、実現するのかどうか。

  駅前の府中街道を越え南武線の下を通り、住宅街を通り過ぎると府中の森公園に近づく。ここでサントリービール工場方面へ向うと、その手前に府中の大東京綜合卸売センターがある。中へ入ると食料品以外にも衣料品、雑貨などもあり小売もやってくれるので、日用品は調達できそうだ。さらに昼時になると客が列になる食堂が数軒並んでいて、そのうちの一軒へ入る。

  まぐろや魚介類の丼が目に付いたが、寿司を頼む。最初に味噌汁とおしんこが出てきて、味噌汁はおかわりができるとのこと。ねたが大きく、腹いっぱいになってまた場内の店を見てまわって外へ出た。

  サントリーの前を通り抜けて行くと、暗い地下道が南武線の下を通って、府中競馬場の近くから府中本町駅へ出る。さらに先の大国魂神社へも足をのばして、日差しの中にくっきりと映える社殿へ一礼して帰る。


神楽坂

2009年09月08日 | 路地裏

                       神楽坂

                                   とまりぎ

  飯田橋駅西口から神楽坂を上がる。途中でわき道にそれると、住宅の中に店が点在して、坂と階段の多いところだ。また本道へ戻って、客の多い肉まんの五十番近くにある毘沙門天の境内へ入る。

  大久保通りと都営地下鉄大江戸線の牛込神楽坂駅の標識を越えて、地元の人たちが大勢買い物に来るスーパーマーケットが二軒ほどあり、さらにあがると赤城神社があるが、現在改装中で、中へ入れない。裏道から大久保通り方向へ行くと、筑土八幡の裏手へ出る。中へ入って表の階段を下がると大久保通りだ。

  神楽坂には感じのいい店が多い。とくに夜の街は雰囲気が変っていて、日本酒が良く似合う。


水元公園2

2009年09月07日 | 公園

                    水元公園2

                                 とまりぎ

  公園の真ん中あたりにレンタサイクルと書かれた貸し自転車があったので、借りて水元大橋を渡り園内を東へ向う。“小合溜”の水面が狭くなって、細い川のようになったところが水産試験場跡地で“めだか橋”という小さな橋があり、これを渡ると埼玉県“みさと公園”入口がある。

  公園へ入らずに先へ行くと交差する太い道の向こうにスーパーマーケットのライフが見える。渡ってライフに近いところに人の出入りの多いところがあり、第一パンの小さな販売所であることがわかった。ここの自社商品は市価と比べるとかなり安く販売している。ただしそうたくさんは食べられないから賞味期限をよく見ないと、あまり多くは買えない。

  貸し自転車で埼玉県の奥へ入り込むわけにはいかないから、この辺までにして戻る。園内には水元大橋の近くに売店と、涼亭という食事どころがあるが、水元大橋の西へ行くと釣り人の多い“内溜”の出口近くに“すゞき”という川魚料理の店が見え、ここへ入る。うな丼を頼むとしばらくして身の厚いうなぎの丼が出てきた。これが柔らかくふっくらとしている。

  水元公園の貸し自転車は、7月18日から11月29日までの土日祝だけ1回2時間高校生以上200円、小中学生100円で葛飾区観光施設活性化共同企業体がやっている。公園がかなり広いから、端から端まで見るには歩いていては回りきれないので、自転車があるのはありがたい。


皆既日食

2009年09月05日 | 太陽

                   皆既日食

                                   とまりぎ

  今年の皆既日食は、はるばる狙いの場所へ行った人も天候に左右され明暗があったようだが、鹿児島県の喜界島からいい映像が送られてきた。薄曇りとのことだったが、それでもこの程度に撮れたことは幸いだった。

  カトリック喜界島教会へ移られてから、そろそろ一年になるだろうか。時々便りがある。

http://gabriel-shijo-junya.blogzine.jp/orablog/2009/07/post_bf19.html


敬愛すべき人

2009年09月04日 | 仲間

                    敬愛すべき人

                                  とまりぎ

  大先輩でもうかなりのお年になって、長い入院生活だった奥さんに先立たれた方がしばらく一人住まいであったが、一昨年に本人の心臓が弱って入院したのをきっかけに、退院してからは息子さんの家へ同居することになった。

  心臓が弱っているから食事制限もあるようだが、血圧を下げるために血圧降下剤を飲んでいる。その中に利尿剤があって、塩分排出しているようだ。これがなかなかたいへんで、外出すると電車でも車でも一時間くらいでトイレ休憩が必要になる。

それで長時間になるときはその薬を飲まずに出かけるようにしているとのことだが、足腰も弱ってきているから、介護人と一緒に行動する。昔は吉祥寺へ行ったついでに井の頭公園へ入って、象のハナコを見ることもあったようだが。出かけた先でちょっと一杯なんてことはまずできない。

一人で出歩くのは、たかだか自宅から駅までと数駅先のにぎやかな街までぐらいだ。家の電話を使うこともあるが昔のテレホンカードがたくさんあるから、天気のいい日には駅前の公衆電話から電話をかけてくることがある。カードはいっぱいあるようで、けっこう長電話になる。同年輩の方々との連絡も、同じような調子だそうだから、会うことはほとんどなくなったことだろう。

遠くへ出かけることがあるのは、彼岸の墓参りぐらいだそうだが、息子さんの運転で行くのが一番楽なようだ。それも彼岸をちょっとはずして、車が混まないときを選んでいるそうだ。これが本人には大旅行なのだろう。

昔は、若いときの仲間たちとの年一回の旅行を楽しみにしていたころは、国内のかなり遠いところまで行ってきたようだったから、今となってはずいぶん情況が変った。せいぜい長生きをしてもらいたいものだ。

マロニエの先生が「敬愛すべき人」と称されたことを思い出し、お二人への敬意をこめて。


昭和84年

2009年09月03日 | 歴史

                       昭和84年

                                   とまりぎ

  “昭和”という文字を見ることも減っている昨今、昭和84年が昭和48年に見え、渋谷のアップリンクへ向った。東急本店の角を右へまっすぐ進むと神山町東の交通信号の右手前にトツネビルがあり、その二階へあがる。パンフに日本で一番小さい映画館『X』と書いてあるが本当に狭い。

  昭和84年とは、つまり平成21年のことである。主人公の飯田進さん(86歳)は昭和18年、ニューギニアへ徴兵で赴任した。戦争、BC級戦犯、巣鴨プリズン、サリドマイド薬害など次々に襲いかかる昭和時代のできごとが展開する。

  「絶望の中にしか希望は生まれん」と。逆算すると大正時代の生まれだ。

  『昭和八十四年~1億3千万分の1の覚え書き』8月22日からUPLINKXでまだまだ上映されている。


鉄人

2009年09月03日 | 仲間

                   鉄人

                                  とまりぎ

  いつも幹事役から全員への通知で、全員への返信ならば多少の情況がわかるが、ただの返信だけだと幹事役はわかっているのだろうが、よくわからないことが多い。ところが鉄人から久しぶりに電話がきた。昼の場所が近くなったから帰りに会おうという。

  思い返せば幼いころに母を亡くしたから、姉と妹の三人が父親に育てられたということは聞いた。母親のあたたかい記憶は遠くかすみ、父親は酒であまりいい思い出がないようだった。しかも中学生のときに野球で脚に怪我をして入院が長期間になり、一年遅れての卒業だった。

  お互いに引っ越しがあったまま所在不明になっていたのだが、あるとき電車で成長した幹事役を奇遇にも見かけたので、彼に会いたいがどうしていると聞いたところ、住んでいるところを知っていると連れて行ってくれた。どうしているか気にかけていたので、その日は遅くまで3人で飲んだ記憶がある。

  父親は再婚したので別居していたが、しばらくして亡くなったとのこと。アルバイトで食いつないでいたが、よく続いたものだと思う。実母の実家が新潟だったので、米だけは送ってくれたが、他に何も無くマヨネーズだけで食っていたそうだ。それで幹事役が“鉄人”だという。マヨラーとは若干(あるいはぜんぜん)違う。

  就職、結婚と普通の生活ができるようになると会う機会が多くなって、そんな過去のことなど忘れていた。あるとき会社を辞めたいがと相談されたことがあった。その後大学へ就職することにしたという連絡が入った。軽く考えていたが、すばらしい転進だ。今回もいつも集まる安い酒場で会ったところ、健在で安心した。