朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

愛の中にとどまり、喜びが満たされるようにと

2018-03-15 10:05:21 | 聖書から

主の命令はまっすぐで、
心に喜びを与える。詩19:9

 イエスの言葉:
あなたがたも、
わたしの掟を守るなら、
わたしの愛にとどまっていることになる。
これらのことを話したのは、
わたしの喜びがあなたがたの内にあり、
あなたがたの喜びが満たされるためである。ヨハネ15:10~11

 Ⅱコリント4:11~18
 ヨハネ14:27~31(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/15;木)


 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方の
命令、御思いは正しく、まっすぐで、
私たちの心を喜ばせてくださるものなのだそうです。

 本当の愛は、
愛する相手と思いを、心を一つにしたいもの、
相手の思っているとおりに自分も思っていたいものなのだそうです。

 その愛において、
〔父である神〕は、〔御子である神〕、イエスを愛しておられ、
イエスは〔父である神〕を愛して、
〔父である神〕が愛してくださっているその中にとどまり、
〔父である神〕の御思い、そのことばのとおりを生きておられるのだそうです(ヨハネ14:31)。


私たちも、イエスによって現されている〔父である神〕の愛の中にとどまり、
イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る、
〔父である神〕を愛する愛の中にいるなら、
〔父である神〕の御思いのとおりに生きたいと思うようになり、
平安と(ヨハネ14:27)喜びが満ち溢れるようになるのだそうです。


私たちが、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている(創世記3:5、22)、私自身、
〔生まれたときからの私〕という霊を
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、
絶えず、日々、刻々、死に渡し、死んだものと認めていくなら、
イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
私の新しいいのちとして、私のうちで働いてくださるのだそうです。


生まれたときからの私は、いよいよ、おとろえて、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって始まった内なる人は、
日々、新しくされて行くのだそうですから。

そして、私たち、この肉体を脱いだとしても、
主イエスを死者の中から新しい霊のからだによみがえらせた方は、
私たちの内なる人、新しい人にも、新しい霊のからだを与え、よみがえらせ、
ご自身の御前に立たせてくださるのだそうです。
御前で、計り知れない、重い永遠の栄光で輝くようにと。


 すべてのことは、私たちのために用いられ、益とされ、
イエスによって現された〔父である神〕の愛、恵みが
ますます多くの人々に及んで感謝が満ち溢れ、
神の栄光が現れるようになるのだそうです(Ⅱコリント4:11~18)。

 神の愛のことばにとどまって
喜びの中を。
今日も。

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約束のことばは、必ず、成るのだそうですから。私たちにも。

2018-03-14 18:02:40 | 聖書から
それ(預言)は終りの時に向かって急ぐ。
たとえ、遅くなっても、
待っておれ。ハバクク書2:3

 ある人たちは、遅いと考えているようですが、
主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。
そうではなく、
一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、
あなたがたのために忍耐しておられるのです。Ⅱペテロ3:9

 ヨハネ15:9~17
 ヨハネ14:15~26(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/14;水)


天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
私たちの信仰がないことをよくご存じなのでしょうね。

 イスラエル初代の王サウルが、
預言者サムエルの言葉に従って7日間、待っていたのですが、
サムエルは来ず、
ペリシテ人は攻めて来て、自分の兵たちは逃げだすに及んで、
最後の最後で待ち切れず、
サムエルが来てささげるはずの全焼のいけにえを、
自分でささげてしまったように(Ⅰサムエル13:5~15)。


それで、この預言のことばのように、
「遅くなっても、それを待て。
それは必ず来る。遅れることはない」と、
待ち切れない私たちを励ましていてくださるのでしょうね。

 この世の終わりの時については、
私たちが、一人も滅びないで、
皆が、すべての人が心の向きを変えて、
ご自分に立ち返って、
ご自分の子となり、
新しい国を受け継ぐ者になってほしいと、
忍耐して待っていてくださるのだそうですから。


愛し合うと言っても、
私たち、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている(創世記3:5、22)
〔生まれたときからの私〕という霊からは、
天の神、主が言われる愛は出て来ないのだそうです。


「的外れ」になっている私たちの霊からは、
自分の理性で正しいと思うことをするばかりで、
天の神、主のお心に心を向けることなく、
自分の情に絡めて、
相手を自分の思うとおりにしようとする愛しか出て来ないのだそうですから。

 十字架刑での処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、
三日目に死人のうちから、新しい霊のからだによみがえり、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語った後、
弟子たちの見守る中、
オリーブ山から天の〔父である神〕右の座に帰られたイエス(使徒1:3~11)。


 そのイエスが、
天の〔父である神〕の右の座にあって派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方。

 その方によって、〔父である神〕は、
私たちの心に、
ご自身が私たちひとりひとりに思ってくださっている御思いを置き、
私たちの心に、
ご自身の御思いがあるようにしてくださるのだそうです(ヨハネ14:15~26)。

 ご自身が、私たち一人一人を愛し、大切に思っていてくださる
その御思いも(ヨハネ15:9~17)。

 それは、必ず、成るのだそうです。
「遅くなっても、待っておれ」と言われているのですから。

今日も。


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私たちを、心安らかな、愛し合う関係に回復して

2018-03-13 08:05:20 | 聖書から
肥えた牛を食べて憎み合うよりは、
青菜の食事で愛し合うほうがよい。箴言15:17

 パウロの手紙:
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、
愛がなければ、
私は騒がしいどらや、やかましいシンバル。Ⅰコリント13:1

 ヨブ記9:14~23、32~35
 ヨハネ14:1~14(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/13;火)

 青菜、野菜を食べて愛し合うのは、
高級な牛肉を腹いっぱい食べて憎み合うより良い、


わずかな物を持っていて、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方を畏れ敬うのは、
多くの財宝を持っていて恐慌、恐怖のうちにいるよりはよい、のだそうです。


深い霊的体験をし、霊的な大きな業が出来るようになっても、
愛がなければ、邪魔なだけ、うるさいだけのようです。


私たちは、時には、
悪いことをしていないのに、潔白であるのに、悪いとされる、
ゆえなく、苦しみに遭うことがあります。

 そして、正しいさばきを求めて神に叫び求めても、
神は返事をなさらない、
私たちの声に耳を傾けてくださるとは思えないような時が(ヨブ9:14~23)。


けれども、〔父である神〕は、私たちを愛し、大切に思っていてくださって、
〔御子である神〕を、私たちを仲裁する者、弁護する者として
立てていてくださるのだそうです(ヨブ9:32~35)。
私たちが、心騒ぐときも、安心しておられるように(ヨハネ14:1~3)と。


この方、イエスが、ご自分のいのちを、
私たちの贖い代(あがないしろ)、買い戻しの代金、
なだめの供え物として差し出し、
私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださって、
仲介者、弁護者となってくださり、
私たちが、〔父である神〕に帰る道となっていてくださるのだそうですから(ヨハネ14:6~9)。


イエスは、処刑され、
墓に葬られ、
三日目に新しい霊のからだに復活され、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語り、
ご自分が生きていることを見せたのち、
オリーブ山から、
弟子たちが見守る中で、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたのだそうです。


その、〔父である神〕の右の座にあって、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を
受け入れる者に派遣してくださるのだそうです。


この方が、私たちの心に、
〔父である神〕が、私たちひとりひとりに思っておられる御思いを
置いてくださり(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、

 また、私たちの思いを〔父である神〕に届け、
執り成してくださるので(ロマ8:26~27)、
〔父である神〕の御思いが私たちの内にあり、
私たちの思いが〔父である神〕の内にあるようになり、
受け入れる者は、〔父である神〕と心を一つにする者にしていただいて、
〔父である神〕が一人一人を通してしようと思われることをしていく者になるのだそうです。


 それで、イエスは、
これを受け入れている者が、
イエスの名によって何かを求めるなら、
「それをしましょう」と仰ってくださっているのですね(ヨハネ14:10~20)。
〔父である神〕の愛の思いが、
私たちの間に実現するために。
今日も。

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岩の上を、しっかりとした、確かな歩みを

2018-03-12 07:50:06 | 聖書から
主は、滅びの穴、泥沼から私を引き上げ、
私の足を岩の上に立たせ、
しっかりと歩ませてくださった。詩40:3

 イエスの言葉:
はっきり言っておく。
死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。
今やその時である。
その声を聞いた者は生きる。ヨハネ5:25

 ヨハネ6:26~35
 ヨハネ13:31~38(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/12;月)


 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
ご自身を待ち望む者、
ご自身に叫び求める者の声を聞き、
滅びの穴、底なしの泥沼から私たちを引き揚げ、
堅い岩の上に立たせ、
しっかりとした、確かな歩みを歩ませてくださる方なのだそうですね。
岩盤を土台として建てた家のように(ルカ6:46~49)。


私たちは、天の神、主からさまよい出て、
神なく、望みなく、滅びに向かって歩んでいる者、
滅びが定まっている者なのですが、
神の声を聞き、生きるものになる、その時が来ているというのですね。


〔父である神〕が
ご自分のうちにいのちを持っておられるように、
〔子〕にも、
自分のうちにいのちを持つようにされているのだそうですから(ヨハネ5:26)。


イエスは、ご自身のことを、
「天から下って来た神のパン」だと仰られました(ヨハネ6:35)。
「これを食べる者は永遠に生きる」(ヨハネ6:51)、と。

 私たちのからだは、食べた物によってできており、
食べた物がからだの中にあり、
ある意味で、からだは食べた物の中にある、
食べた物とからだが一つだ(ヨハネ17:21~22)、ということができるでしょうか。


 イエスは、十字架刑での処刑を受けて死んでくださいました。
私たちは、そのイエスに合わせていただいて、
私自身である、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている」(創世記3:5、22)、
〔生まれたときからの私〕という霊を
十字架刑での処刑が済んだもの、
死んだもの、と手続きをしていただけるのだそうです。


そして、三日目の日曜日の早朝、
死人の中から、新しい霊のからだに復活され、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国について語った後、
オリーブ山から、
弟子たちのみている前で、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス。


そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。
〔父である神〕は、
受け入れる者をこの方で覆い、
この方の中に浸し、沈め、漬け込み、満たし、バプテスマして、
ご自身が私たちひとりひとりに思っておられる御思いを
受け入れる者の心に置いてくださって、


また、この方が、
私たちの思いを〔父である神〕にとりなしてくださって(ロマ8:26~27)、


〔父である神〕の御思いが受け入れる者の内にあり、
受け入れる者の思いが〔父である神〕の中にあるようにしてくださるのだそうです。
一つになっている者。いのちのパンを食べた者に。

 それで、この、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕のひとりひとりに対する愛の御思いが心に来ているなら、

その人は、イエスといういのちのパンを食べた者、
イエスと一つになっている者、
イエスの弟子であることが
周りの人に分かるようになる(ヨハネ15:34~35)、というのですね。


 底なしの泥沼に沈んでいた者が、岩の上に引き上げられ、
岩の上を(父である神の御思いの中を)歩んでいる者に、
新しい人生を生きる者になっていることが。
今日も。

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一粒の麦が地に落ちて死ぬように

2018-03-11 08:40:47 | 聖書から
一粒の麦は、
地に落ちて死ななければ、
一粒のままである。
だが、死ねば、
多くの実を結ぶ。ヨハネ12:24(3/11の週の聖句)

 神よ、僕の祈りと嘆願に耳を傾けて、
荒廃した聖所に
主ご自身のために
御顔の光を輝かしてください。ダニエル書9:17

 小さな群れよ、恐れるな。
あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。ルカ12:32

 ヨハネ12:20~26
 詩57(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/11;Ⅱ日曜日)


ダニエルは、捕囚の地、バビロンにあって、
荒れ果てている聖所、イスラエルの神殿のために
嘆願の祈りをささげたのだそうです。

 「主よ。あなたのすべての正義のみわざによって、
どうか御怒りと憤りを、
あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山からおさめてください。
私たちの罪と私たちの先祖たちの悪のために、
エルサレムとあなたの民が、
私たちを取り囲むすべての者のそしりとなっているからです。
私たちの神よ。
今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、
主ご自身のために、
御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください」(ダニエル9:16~17新改訳)、と。

 そして、イエスは、
多くの実を結ぶために一粒の麦が地に落ちて死ぬように、
神の民、イスラエルだけでなく、
イスラエルの国籍がなく、神なく、望みなく生きている、私たち異邦人も、
天の神、主、「『私はある』という者」と名乗られる方に仕える者となり、
イエスがいる所にいるようになるために(ヨハネ12:20~26)、
自分からすすんで、
十字架刑での処刑を受けて死んでくださったのだそうです。


私たちに神の国をくださろうと。

 それで、私たちも、
イエスによって、この神の国をいただき、歌うのですね。
「主よ。
私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、
国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。
あなたの恵みは大きく、天にまで及び、
あなたのまことは雲にまで及ぶからです」(詩篇57:9~10)、と。
この新しい週も。

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