主の戒めは清らかで、
目に光を与える。詩19:9
イエスの言葉:
わたしがあなたがたに話した言葉は
霊であり、
命である。ヨハネ6:63
ヘブル書10:1、11~18
ヨハネ17:1~11a(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句3/23;金)
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方の戒め、言葉、
そこに込められた〔父である神〕の御思いは、
清くて、目に光を与え、明るくするのだそうです。
イエスが弟子たちに話した言葉、
それは、イエス自身から出たものではなく、
〔父である神〕の御思いから出ているもの、なのだそうですが、
それは、霊であり、命なのだそうです。
そして、その永遠の命とは、
私たちが唯一のまことの神である〔父である神〕と、
〔父である神〕が遣わされた
イエス・キリストを体験して知ること(ヨハネ17:3)、なのだそうです。
イスラエルでは、モーセ以来、年ごとに、
民の罪の身代わりとして雄牛とやぎの血が、命が、ささげられてきました。
けれども、これは、後に来るものの影であって、実物ではなく、
これによって、神に近づいてくる人々を完全にすることはできないのだそうです。
そして、ご計画の時が満ちて、
御心に従って、
その影の本体であるイエスのからだが、一度だけささげられたことにより、
これをもらい、受け取る者は聖なるものとしていただけるのだそうです。
イエスは、私たちの罪のために
一つの永遠のいけにえとしてご自分のからだをささげて後、
新しい霊のからだに復活して、神の右の座に着き、
その栄光の御座から、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を
受け入れる者に派遣してくださり、
この方によって
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを、
受け入れる者の心に置き、
思いに書き付けてくださるのだそうです(ヘブル11:1、11~18)。
受け入れる者が〔父である神〕と思いを同じにし、
心を一つにするようにと(創世記1:26、ヨハネ17:11、21~23)。
イエスは、過ぎ越しの小羊がほふられるその時刻に、
十字架刑での処刑を受け、命をささげてくださり、
墓に葬られ、
三日目、大麦の初穂がささげられるその日に、
復活の初穂として、新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
ご自身が生きていることを見せ、
神の国のことを語った後、
オリーブ山から、弟子たちの見守る中、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたのだそうです。。
それで、この約束のことばを信じ、受け入れた者は、
そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いによって生きるのですね。
私自身である〔生まれたときからの私〕という霊から来る思いを、
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、死んだものから来た思いであると認めながら(ロマ6:11)。
今日も。
(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)
イメージ 1
[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]
[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]