主の慈しみとまことは
とこしえに、私たちを超えて力強い。
ハレルヤ。詩117:2
私たちすべてのために、
その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、
御子と一緒に
すべてのものを
私たちに賜らないはずがありましょうか。ロマ書8:32
ヨブ記38:1~11、42:1~6
ヨハネ18:12~27(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句3/27;火)
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方の
慈しみとまことは、
私たち人間の力を超えて力強いのだそうです。
その為された御業は、
私たち人間の理解をはるかに超えているのだそうです。
耳がまだ聞かず、目がまだ見ず、
人の心に思い浮かびもしなかったようなことを、
〔父である神〕は私たちのためにしていてくださるのだそうですから。
〔父である神〕は、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になろう」(創世記3:5、22)として、
ご自身に逆らい、さまよい出てしまった私たち人間を、
元のかたち、
「われわれのかたち、われわれに似たもの」(創世記1:26)、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛と尊敬において、自由意思で、自発的に心を一つにしておられる、
その、愛における一つに、私たちを取り戻そうとしておられるのだそうです。
それで、御子である方を、
女の子孫として(創世記3:15)、
約束のことばのとおりに、ダビデ王の子孫の、
ひとりの貧しい処女を通して
この世に派遣されたのだそうです(ルカ1:26~38、21~7)。
この神の御子であられる方は、
社会的にも経済的にも貧しい場所におられたのですね。
それゆえに、世の指導者たちは、
この方が神から遣わされた方と認めることが出来ず(Ⅰコリント:2:8~9)、
世を騒がすものとして捕らえ、
十字架刑で処刑してしまったのだそうです。
イザヤが、
「私たちの聞いたことを誰が信じたか。
彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
輝きもなく、
私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、
私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53:1~3)と書いているとおりに。
けれども、〔父である神〕は、
人々がご自身に背いて御子である方を十字架刑で処刑した、
その、御子が受けられた処刑を、
私たち、すべての人間の処刑としてくださって、
受け入れる者の〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑が終わっているもの、
死んだものと手続きしてくださるのだそうです。
そのうえで、
墓に葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って弟子たちに何度も現れて、
ご自身が生きていることを証明され、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で、弟子たちが見守る中、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスを通して、
受け入れる者に、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。
そして、この方によって、
私たちの心に、
ご自身が、私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるので、
受け入れる者は、〔父である神〕と同じ思いを思い、
一つ心になって生きるようにしていただけるのだそうです。
〔父である神〕がしようとされることをしていく者に。
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰るとおりに。
〔御子である神〕がなされた大いなる御業によって。
今日も。
(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)
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